路地裏にバケツいっぱい程の血がぶち撒けられた。
肩ほどまで伸びた髪を金色に染めた男が、その上に倒れ伏した。
「なんだ、もうお仕舞いかい?」
その傍らに、和装の男が立っていた。
女物の赤い着物は肩まで下がり、さらけ出された胸元に点々と赤い斑がついていた。
和装の男は名を侘助と言い、近頃世間を賑わす辻斬りだった。
得物は傘に仕込んだ刀。なぜ彼が人を斬るのか、金の為とも、肉を喰らうとも言われているが、真相は誰も知らない。
「あっさり壊れたら、詰らないじゃないか。
もう少しは楽しませてくれるんだろゥ?」
まだ息があるらしい金髪男をどうしてくれようかと思案している侘助の横を、すばしこい何かが駆け抜けた。
反射的に傘を振りきるが、それは既に彼の凶器と袂をすり抜け、地に伏した金髪男の体に飛びついた。
すばしこい何かは、金髪男のたった一人の友だった。彼は唯一無二の親友から、ウサギと呼ばれていた。
「キツネ……キツネ、しっかりして!」
「……、ぅ」
キツネと呼ばれた金髪男は、薄く目を開く。
ウサギは大切な宝物を抱え上げるように、キツネの頭を己の膝に持ち上げた。泥と血が白いシャツに染み、どす黒い染みを作る。
「……何しに来た、馬鹿」
「君を……助けに……」
助けるも何も無いと、その場にいた三人が三人とも思ったが、それぞれの思惑はだいぶ違ったものだったろう。
ウサギはキツネの右手を握った。強く強く。急速に離れていく命を少しでも引き止めようと。
「もういい、ウサギ」
「何言ってるんだよ!しっかりしろよ!
これじゃあいつもと立場が逆じゃないか……」
「いいから、早く逃げろ」
「嫌だ!
もう君の傍から離れたくない……」
「ああ、わかってる」
わかってる、キツネは繰り返した。
ウサギにとって彼は特別な存在だった。彼にとってもまたウサギは何より大切なものだった。
だからこそ、許せない。己の運命に彼以外の何者かが介在することが。
キツネの世界には自身とウサギだけが存在し、それが彼の総てだった。
「だから、お前が、やってくれ」
「……っ」
ウサギはすぐにその言葉の意味を理解した。
それは彼にとって苦痛以外の何者でもない。しかし、やらなければならない。どんなに理不尽であっても、彼にとってキツネの言葉は絶対だったから。
ウサギはキツネの首に両手の指を巻きつけた。
自分の意思が正しく伝わったことを確認したキツネは、満足そうに微笑んで目を閉じた。
彼の思い描く脚本には、無様な死に様なんてラストシーンは用意されていない。
どんな物語でも最後のカットは美しくなければ。それが彼の信条だった。
ウサギは精一杯の力を指に込めた。血の気の失せた頸に爪がギリギリと食い込み、キツネの眉間に皺が寄った。
苦し紛れに伸ばされた手は、それでもウサギを突き放そうとはせず、彼の頬を爪の先で優しく撫で、地に落ちた。
ウサギの頬に付いた、三本の赤い線。その上を、一粒の涙が滑り落ちた。
「……終わったの?」
その一部始終を傍観していた侘助は、キツネの頭をそっと下ろして立ち上がったウサギの背中にそう言って、さもつまらなそうに欠伸をした。
突然登場した異分子は、あっさり終わってしまった遊びに何らかの華を添えてくれるものと少しばかり期待して見守っていたのに、結局三文芝居を見せつけられただった。
まったくもって詰らない、と。
「……三文芝居?」
「ああ、声に出てたかい?
ごめんよゥ、あんまり面白くないからさ、つい」
へらへらと笑って、傘を逆手に持ち直した。
どうせ壊してしまう人形、精々派手に撒き散らしてやろうじゃないか。
踏み込もうとした刹那、侘助は何かを嗅ぎ取って、動きを止める。
何かとは何か。ウサギの纏う空気が変わったことか、遠くのサイレンが耳についたからか。少なくとも、恐怖ではない。はず。
「つまらない?」
ウサギが振り返った。
その顔からは感情が消え、ただ研ぎ澄まされた殺意が赤い瞳に渦巻いている。
侘助の肌に、そくりと鳥肌が立った。
やはりこれは恐怖ではない。むしろ歓喜とでも呼べようか。
体中の血が沸き、裏腹に頭は冴えていく。
酒と幾つかの薬が魅せる幻惑に酔い狂う意識が、その時だけは己を取り戻す。
「好い顔だねェ。
なかなか楽しませてくれそうだ、そこのガラクタよりか」
「黙れ、野良犬」
低く唸る。
ウサギの怒りは、キツネを殺されたことでも、ガラクタ呼ばわりされたことでもなく、侘助の発した5文字の言葉に向けられていた。
それは、作る者に対する無遠慮な暴力。最大の侮辱。
「訂正しろ、とは言わない。
たとえ屑であっても、観客の言葉は重んじろ、って」
キツネの言葉は絶対だ。それでも
「お前みたいな薄汚い獣に、キツネの作品は穢させない」
「へえ」
侘助が、ニタリと哂った。
唇の端が引き攣れるように持ち上がり、蜥蜴のようだとウサギは思った。
「へえぇぇ、え」
侘助の手の中で、傘がぎちぎちと鳴る。
ウサギは血の海に立ち尽くしたまま、きつく拳を握りしめる。
対峙する二人の間を、風がびょうびょうと啼き声を上げて吹き抜けていった。