正門をくぐり抜ける時、彼は一度だけ町の上空を振り仰ぎ、雲が疾いなと呟いた。

低い囁きは、まるで神託だった。

Note: November 3

雨は正午を待たず降り始めた。

行路はすっかり水浸しで、僕らは雨雲が行き過ぎるまで沿道の防風林で風雨を凌がなければならなかった。

僕は木の根っ子に腰掛け、昨日磨いたばかりの槍をもう一度念入りに手入れした後は特にやることもなくなってしまって、自分の膝に頬杖をついて轍に溜まった水を雨粒がだぽだぽ叩くのを眺めていた。

隣には竜の子どもが地べたに直接座って、泥濘を素足で蹴り出したり、ぺたぺた叩いてリズムを取ったりしている。

ふと、同じことをやってみたくなった。ひんやりした泥に足を突っ込んだら、冷水に浸した小松菜みたいに新鮮な気分になれるんじゃないかな。

でもそれはきっと錯覚で、本当にそんな真似をしようものなら明日の朝は後悔と高熱に苛まれる羽目になるだろう。11月は僕らにやさしい季節ではなかった。

雨粒が土壌に及ぼす影響の観察に飽きた僕は、すぐ隣に立つ彼の様子をそっと窺った。木の幹に背中を預け、手帳に何か書き付けている。

銀色の髪は霧のようにたなびき、瞳は埋め火の如く静かに燃える赤。感情を殺した横顔を眺めていると、胸がじくじくと疼く。

人の輪の中では快活で気の置けない彼が、一歩そこを離れると、まるで荒野の老木のように侵しがたい孤独さで他人の干渉を拒んだ。

それは態度や言葉にはっきりと表れる類の拒絶ではなく、だからこそ余計に寂しかった。不甲斐ない自分が悔しくて、歩み寄った分だけ後退る彼に歯痒さが募る。

つと、彼の注意が僕に向く。唇の端に苦笑をにじませて。

「なあ、そんなに見られると顔に穴が空くぜ」

「へっ!? あ、ええっと……すみません」

「謝るようなことじゃないさ。どうかした?」

「いえ、その……」

面食らった。まさか気付いていたなんて。まったく僕は、どれほど熱心に彼の横顔へ見入っていたのだろう?

どぎまぎと彷徨う目に、雨を避けて胸に押し付けられた革の手帳が留まる。

「な…何を書いてたのかな、と、思って」

とってつけたような言い訳を、幸い彼は疑わなかった。

「ああ、これ?」背表紙を人差し指が軽く叩く。「メモだよ、メモ。忘れたくないことがたくさんあるから」

言ってから、彼は自分の発言に少し照れたみたいに、筆記具の根本で鼻先を掻いた。

何と反応したものか、困ってしまう。所在なく膝を抱えた僕の耳に、続けて、屈託ない声が飛び込んできた。

「見たい?」

「はいっ!?」

……ひとつ、申し開きをするならば。

我が家名にかけて、僕は人の日記を覗き見たがるはしたない人間ではない……絶対に!

声が上擦ったのは、彼の申し出が想像の埒外だったからで。

「いやあのでもそんな………いいんですか?」

だがしかし、彼の親切な提案を無下にするのも礼を失する。

とっさに煮え切らない返答をしてしまったのは、つまりそういう訳なのだ。うん。

「だってそんな顔されちゃ、な」

僕の葛藤も知らず、彼は朗らかに笑う。

耳のあたりが熱くなった。僕、どんな顔してたっていうんだ?

「見るのはまったく構わないけどさ。面白いもんじゃないよ」

手渡された手帳の革表紙は、使い込まれて飴色に光っていた。

ぱらぱら捲ってみる。

彼の言うとおり、日記にも満たない些事が、彼らしい素朴で丁寧な筆によって時系列順に綴られている。字は場所によって鉛筆書きだったり、インクだったりした。

一番新しい文字列―――たぶん、今さっき彼が書いていた文章は、こうだ。


『王国歴298年 11月3日 午前


 急な雨。路面の状態が悪い。舗装の必要有り』


上の行に目を移す。瞬間、胸が重苦しく脈打った。

これは、この記録は、思い出と呼ぶにはまだ生々しすぎて。

強張った目をページから引き剥がすように顔を上げた。目の前には蹄鉄に踏み荒らされた畑が広がっている。

あの日、あの場所に、僕らはいた。つい半月前の話だ。

天を衝く吶喊、血煙の臭気、鉄を叩く剣の痺れさえ、まだ手のひらにこびりついて落ちない。

なにか急に心許ないような気持になり、気がつけば僕の隣から消えてしまった彼の姿を探し、あたふたと立ち上がる。

もちろん、彼はすぐそこにいた。木に寄りかかった僕と背中合わせになるよう同じ木にもたれていたから、ちょっとの間、見失ってしまっただけだ。

彼はくつろいだ顔をして、長い髪にもったり泥をまつわせた子どもが水たまりを転げ回るのを見守っていた。

お父さんみたいですね。何気なく口にすると、まだそんな歳じゃないよ、お母さん。と混ぜっ返される。

お母さん。庶民の家庭では、配偶者を家庭内の役割で呼ぶ慣習があるという……うん、想像が飛躍しすぎだ。さすがに。

妄想を逞しくしている間に、嫌な感覚は消え去っていた。

手帳に目を戻そう。

僕の動揺とうらはらに、筆録は淡々と続いた。

ページの端に蝋が垂れた跡があった。涙のようだった。少なくとも僕の前で、彼は泣かなかった。

更に記述を遡る。

紫水晶に閉じ込められた子ども達のこと。

急に大きく飛んだ日付と日付の間には、幻想的な古代都市の現実的な通貨レートの覚書。

小人の昇降機を動かす秘密の合言葉。妖精王が語る悲しき運命。

異邦の友人に教わった山賊風肉スープのレシピ(ふむ、僕が作るなら彼の口に合わせてもっと塩味を控えるけどなあ!)

聞きかじりの国家情勢。酒場で遊んだカードの戦績。

旧い叙事詩を謄写する合間には挿絵のように夜種のクロッキーが踊る。そして――――そして。


『王国歴298年 4月3日 朝


 アルソンと出会う』


僕と彼が共有する、もっとも古い思い出。

そっけないくらい短い一文を指先でなぞる。小手についた水滴が垂れて、指の通った跡が薄灰色の罫線に変わった。

胸が、きゅうっ、とした。

僕との出会いを特別に抜き出して書いてくれた。忘れたくない思い出として。

たったそれだけのことが、胸をいっぱいにするくらい、嬉しかった。

……が、その日の記述はそこで終わらない。


『広場にてテレージャと出会う。

 ひばり亭にてシーフォン・メロダークと知り合う』


なあんだ! 僕は心底がっかりした。

その日一番に彼と顔を合わせたのが僕だったって、単にそれだけじゃないか!

そりゃあそうさ、僕は朝一で彼の屋敷を訪ねたのだから。

一枚、ページを繰る。

3月1日、一連の怪異の起点となった洞窟を発見した記述で手記は終わる―――否、ここから、始まった。

「にやけたり溜め息ついたり、手帳見るだけで忙しないな?」

至近距離で声がした。

その上いきなり肩を抱かれたものだから、仰天した僕は叩き潰す勢いで手帳を閉じた。雨に烟る木立の間々に、馬の尻に鞭を当てたような小気味いい音が響く。

彼はきょとんとして、それから、そよ風みたいに笑った。

「アルソンを見てると飽きないよ」

褒め言葉だとしても、正直なところ、あんまり嬉しくなかった。

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