秋の汀

ぎちぎち ぎちぎち

何処かが軋む音。

それは聴き慣れた床に軋みに似ているようで、遠く昔に置いてきた思い出の啜り泣きにも思えた。

気が付くと芒野原に立っていて、空を埋め尽くすほどの赤蜻蛉を竹竿で追っている。

腕に薄い痛みを感じる。

芒の葉は鋭くて、駆け回るうちにいくつも擦り傷を作った。

その度、誰かが軟膏を塗ってくれた気がする。よく覚えていない。

―――

名前を呼ばれて、振り返る。

兄が居た。記憶の中の兄は、己よりも年下だった。

兄が口を動かすと、ぎちぎちと軋むような音が大きくなった。

兄ちゃん、何してるの。

兄は笑う。

開いた口から刺の生えた飛蝗の足が零れ落ちた。

―――目が覚めた。

寝汗で額に張付いた髪を掻きあげて、枕元に転がった一升瓶に口を付け、呷る。空だった。

酷い夢を見た気がする。

中身はすっかり融けて流れてしまったのに、腹の中に無理矢理綿を押し込まれたような、妙な息苦しさだけはっきり残っているのが腹立たしい。

開け放したままの窓から、冷たい風と底無しの青空が差し込む。

煎餅布団に転がって暫く考えてみたが、やはり表へ出ることにした。

今日はもう客は来ないだろう。無性に誰かに会いたかった。

河原まで来て、見覚えのある男の姿を見つけた。

客だったろうか。そんな気もするし、違う気もする。

隣に歩み寄ると、男は水面からこちらへ視線を移し、どこかぎこちなさを感じる笑みを浮かべ、

「久しぶりだな」

と言う。

思い出した。いつか軒先を貸した縁で知り合った男。書痴の朴念仁。

「そうだね」

最後に会ったのは、夏の盛りだっただろうか。

その後も、幾度か話したような気もする。よく覚えていない。

「こんな時間まで寝ていたのか」

頬に痕が残っている、と、薄い唇を歪めた。

ひたりと手を据えられた。指先が冷たい。

「寒いよ、ここは」

「ああ。その方が、意識がはっきりする」

男は手を袖の中に引っ込め、再び遠くへ目をやった。

つられるように、空を見上げた。青い繻子に散りばめられた赤蜻蛉。

「あれ、秋茜だね。薬になるんだよ」

「……そうなのか、初耳だ」

「本当かどうか知らないよ、教えてもらった話だから」

足元の小石を拾い上げ、投げた。それは綺麗に弧を描き、竹竿の先に止まった赤蜻蛉の上を通って、ちゃぷんと落ちた。

驚いたように飛び上がった蜻蛉は、あっという間に空を舞う群れへ紛れて、消えた。

男の方を見る。未だ硬い表情のまま、遠くを睨んでいる。

「訊かないんだね」

「何をだ」

「誰から教えてもらったのか」

「訊いて欲しいのか」

「訊かせて欲しい、って顔してるからさ」

口からでまかせだった。

が、意外にも、男はふいと俯いた。当て推量が的を突いたらしい。

意地っ張りでひねくれ者のくせに、妙なところで素直な男。

「……何を笑っている」

「ああ、笑ってたかい?ご免よゥ」

ひらひらと手を振って返すと、いかにも不愉快だと言いたそうに溜息をついて、また黙り込む。

それでも立ち去らないのは、やはり訊きたいからだろう―――勝手にそう思うことにした。

他人相手に独り言を喋るのは、嫌いじゃない。

「兄ちゃんがね」

二人野っ原を歩き回り、訊きもしないのに、あれは秋茜だ、猩々飛蝗だと教えてくれた。

捕まえたら可哀相だからと言って、記憶に焼き付けようとする様に目を見開いていた、やつれた横顔。

同じ病を患って、それでも今年、兄の年を越えたことを思い出した。

「もう死んだけど。随分昔の話」

「そうか……悪かった」

「何で?」

「思い出したく無かったという顔をしている」

く、と、喉が詰まった。飲み込んで、隣を見る。

男は努めて平静を装っているが、袂で隠した口元は確かに笑っていた。

「……何笑ってんのさ」

「ああ、すまないね」

鼻先を赤蜻蛉が掠め飛んでいった。

空を覆う赤い大群は、てんでばらばらに飛び回って、必死で誰かを探している。

短い生涯、寄り添う相手を。

「ねえ、あいつら、みんな同じ顔してるよね」

「向こうも我々を見て、そう思っているだろうな」

空の眦が赤く染まり、もう日が落ちると告げていた。

2008/9/14