それは肌に纏わりつくような厭な雨だった。
一向に降り止む様子は無い。寧ろ、先程より雨足が強くなった様にさえ感じる。
雨宿りの男は、古びた雨樋から溢れ出る水を所在無げに見つめていた。時折、詰まっているらしいその雨樋がごぼりと汚水を吐き出す時だけ、僅かに身を引く。腕に抱えた包みを汚したくないようだった。
全く忌々しい雨だ……男は独りごちる。もう小半時はこうしているような気がする。しかし荷を濡らす訳にもいかず、さてどうしたものか。途方にくれて空を仰ぐ。
「雨宿りかい、兄さん」
耳に届いた、媚を含む男の声。
首を廻らすが人影は無い。
「兄さん、こっちだよゥ」
男の慌てた様子が可笑しいのか、くつくつと笑いを洩らすその声は、真後ろの窓の中から聞こえた。
群青色の簾に遮られて中の様子は窺えないが、衣擦れの音とともに動く影が見える。
「……透き見は感心しないな」
「人ン家の窓の前に突っ立って、それは無いんじゃないかい?」
「…………………」
「おや、気に障った?」
男が押し黙ったままでいると、悪かったねェ、とちっとも済まなそうではない調子で詫び、それきり声も黙り込んだ。
しばし、雨の音が狭い裏通りを支配する。
「兄さん」
沈黙に耐えられなかったか、それともよほど暇なのか(おそらく後者だろう、と男は当たりをつけた)声は再び男に話しかけてきた。
「その荷物、本だろ?」
「……ああ」
手持ち無沙汰はお互い様だ。
雨樋から零れる水に気を払いながら、男もしぶしぶと言った様子で言葉を返す。
「よくわかったな」
「ここは古本屋から表に抜ける近道だから、本を買い込んだ書生さんが雨をしのいでいくんだよ」
「そうか」
「あんたも書生さん?」
「まあ、似たようなものだ」
「やっぱりね」
かしこそうな顔だもんねぇ……と満足そうにつぶやくと、ふと声が止んだ。
次いで乱暴に簾を払いのける音。
「ねぇ」
声が近づいた。男は振り返る。
簾は外れ、濡れた窓枠にだらりと垂れ下がっている。その上に女物の着物を纏った男が、気だるげな様子で凭れていた。
その目がすぅと眇められた。絡むような視線。
「アンタさ、青い椿って知ってる?」
「青い椿?」
いやましの 八峰に茂る青椿―――
「夫木抄、信実朝臣の歌だろうか」
「誰が作ったかはどうでも良いんだよ」
いちいち御託が多いねェ兄さんは―――ため息とともにそう吐き出して、そのまま部屋の中にずるりと倒れ込む。
布団の上にしどけなく投げ出された着物の裾には、煤けた赤い椿が散っている。その淫靡な痛ましさに、男は僅かに目を伏せた。
「兄さん、青い椿ってどんな花だと思う?」
倒れこんだ格好のまま、声の男は呟いた。男の立つ場所からは、その表情を知る事は出来ない。
「青い椿か―――」
男は窓枠に寄りかかり、外に視線を戻す。雨はさほど気にならなくなっていた。
「『茂る』とあるのなら、葉椿のことではないか」
身を起こす気配。男は振り返らない。
男の背中に生暖かい重みが覆い被さった。煙草と汗の匂いが強くなる。
耳元の囁きから、微かに酒気を感じた。
「………アンタ、本当につまんない男だね」
男の背中から重みが消えた。と、そのまま強かに突き飛ばされる。
踏み止まれず、路の真ん中につんのめる。振り返ると、声の男はさも楽しげに笑っていた。
「あっははは!ごめんね、そんなに勢い良く飛ぶと思わなかったから」
「な、何をッ」
「それよりも、ほら」
声の男が上を向いた。釣られて男も空を仰ぐ。
雨は止んでいた。
「これで帰れるね」
「ああ………その」
「ん?」
「……助かった」
「アタシは何もしてないよ」
アンタが勝手に雨宿りしてただけじゃないか―――
辻を曲がる前、男はもう一度振り返った。簾は元の通りに掛けられていた。荷を抱えなおし、再び歩き出す。
今度、礼も兼ねて彼を訪ねてみようか―――と考えて、やめた。そうやって会いに行くのは、何か決まり悪いことのように思えた。
本屋には何度だって足を運ぶし、その度にこの路を通る。きっと、あの軒先を借りる日がやってくるだろう。
その時まで、青い椿の事でも調べていようか。
「何度も『つまらない男』扱いでは堪らないからな」
―――いずれまた、雨の降る日に。