青年の足元には、石膏像のように冷たく硬くなった少女が仰向けに横たわっていた。
「脈を診ても?」
「どうぞ。無駄だと思うけど」
青年の言った通りだった。
恐怖に見開かれた目を閉じ、涙で濡れた頬を服の袖でぬぐう。
辺りを見回す。街頭の光に浮かぶ白いベンチが目に留まった。
「この子を……」
「どうぞ……別に僕に許可を取る必要は無いんじゃないかな」
道を空けるように、青年が後ろへ下がる。
塗装の剥げかけたベンチに少女を横たえる。胸の前で十字を切り、短い祈りの言葉を呟くように唱えた。
振り返ると、青年はまだ同じ場所に立っていた。感情の読めない赤い瞳が、ひたとこちらを見据えている。
「いやまさか」凍えた手を項に当て首を振る。「吸血鬼の食事に遭遇するとはねぇ」
眠れないからといって、夜中に寂れた公園を散歩するものではない。ろくな目に合わないと相場が決まっている。
青年の、微風のような笑い声が聞こえた。
「残念だったね……牧師さん」
息が詰まった。
平静を装い、へらりと笑ってみせる。上手く誤魔化せた自信はない。
「ありゃ、俺って結構有名人だったのね」
「たまたまだよ。この間、教会の前を通ったから……」
大人しい声。柔和な表情。
見た目はごく普通の、どちらかといえばいじめられっ子属性の年若い男。
まったく人は見かけによらない。彼は人ではないが。
「市松くん、市松くん……」
青年の右肩がもこりと盛り上がった。
薄闇に目を凝らして見ると、それはいささか肥満気味の鼠かハムスターのようだった。
使い魔か。これはまた随分と可愛らしい。
「なにかちょうどいいのはないかな。あんまり血が飛ばなさそうなので……」
顔を前足で擦っていた鼠かハムスターは動きを止め、ちょっと首を傾げた後、角砂糖が水に溶けるように闇に拡散した。
青年が右手を差し伸べるように前に伸ばす。広がった黒い靄は青年の手のひらの上に集まり、やがて蛇のように波打つ剣身に形を変えた。
「何これ……あんまり血が飛び散らないのに化けてって言ってるのに……」
青年は手の中の武器を眺めながら、ため息交じりの愚痴を漏らす。
彼の使い魔は主人への忠誠には欠けるが、なかなかかしこい奴らしい。炎の形にうねる刃は傷口を大きく裂く。
「もう何でもいいや。さっさと終わらせて早く帰らなきゃ……」
雑念を振り払うように、大きく剣を振った。青年を取り巻く空気が変わる。
話し合いで方が付く雰囲気ではなさそうだ。唇を舌で湿す。
「ごめんね。牧師さんにうらみは無いんだけど、ここで片付けておかないと後で色々面倒だから」
「ひどい言い草だなぁ」
「神様に祈ってみる?牧師さんの信心が本物なら、助けてもらえるかもしれないよ」
「残念ながら、俺んとこの神様は自ら努力しない人間に道を拓いちゃくれないんでね」
「冷たい神様だね」
「厳しさは愛だよ。覚えとけ吸血鬼」
覚悟など、とっくの昔に決まっていた。
「俺も、抵抗もせず殺される訳にゃいかねぇんだわ……神の御名背負って生きてるからには」
腰から銃を引き抜くのと、唯一の光源だった公園内ただ一本の街頭の電球が乾いた音を立てて弾けたのは、ほとんど同時だった。
* * *
世界が闇に閉ざされた瞬間、急に足場が不確かになった気がした。
動揺を収める暇も与えず、耳元で鋭く空気を裂く音。
紙一重、上体を捻って躱す。足元の土が抉れ、その上に一房の色褪せた金色の髪が落ちた。
閃く刃は再び闇の中に吸い込まれ、その方向から、不機嫌な声音の呟きが聞こえた。
「やだ……これ重くて使い辛い……」
そりゃそうだろ、両手で使う剣を片手で振り回してんだから。
口の端まで上った言葉を慌てて飲み込む。お節介焼きはもはや深刻な職業病だ。絶対不利のこの状況で、敵に塩を贈ってどうする。
不意に頭上で何かが羽ばたく音がした。カラスが何かが、眼下の騒ぎに驚いて飛び立った音だろう。
わかっていて、頭の中を、あるひとつの妄想が支配する。
剣を携え、黒々と大きな翼を広げた悪魔。その口元はべっとりと血に塗れ―――
「怖いの?」
闇の向こうから楽しげな声。「手、震えてるよ」
「そりゃあね、怖いよ」
素直に吐き出した。この期に及んで、強がって見せる意味は無い。
「勝ち目薄そうだもん。反則だよ、そんな武器持ってきちゃってさ」
「お願いしてみる?せめて長く苦しまずに済みますようにって」
「おいおい、何度言ったらわかるんだよ。そんなこと祈ったって……」
「神様にじゃなくて」
眼前の闇が人の形に膨れ上がる。
「僕にさ!」
波状の刃が大きく後ろに引かれる。反射的に走り出そうとする足を地に踏み止める。
剣先を導くように手を添える。吸血鬼の赤い瞳が、一瞬、動揺に揺れた。
突き出された刃が左脇腹を貫いた。焼けた鉄を押し付けられたような熱さ。次いで、凄まじい痛みと吐き気が込み上げる。
腹を串刺しにされたまま懐に飛び込む。吐き出した血が白いシャツに飛び散る。
呆気に取られて動きを止めたままの吸血鬼の首筋に、銃口を突きつけた。
「……俺の勝ち」
口を歪める。今度はうまく笑えた気がする。
吸血鬼は激しく瞬いた後、覚悟を決めた表情になって、静かに息を吐き、項垂れた。
諦めのいい奴なのか、それとも案外素直な性格なのか。殊勝な心がけだ。
「でも、俺はお前を殺さない」
血の気のない首筋から銃口を退く。
吸血鬼が顔を上げる。まともに視線がぶつかった。
「何のつもり……?」
「お前は俺を殺せばいい。だけどな、忘れんな。お前は俺に負けたんだ。
夜の統治者が聞いて呆れるぜ。格下の牧師にご厚意で生かしてもらった、なんてな」
赤い瞳がすぅと細められる。
鉄の味がする痰が喉を塞いだ。喘ぐように言葉を繋ぐ。
「この先ずーっと、惨めな敗北者の汚名背負って生きていけ……屈辱を味わう時間はたっぷりあるぞ、良かったな長生きで」
声を絞り出しきった瞬間、腹を蹴り飛ばされた。
体が後方に飛び、同時に脇腹を貫いていた刃が皿に傷口を大きく開きながら引き抜かれる。
地面に落ちた衝撃が傷口から体中に響く。しばらく泥と血の中でのた打ち回っていたが、鼻先に柔らかいものが触れて、顔を上げた。
ハムスターが、首を傾げてこちらの様子を窺っている。その向こうに、赤黒く汚れた足が見えた。
頭の上から声が降ってくる。
「牧師さん、口だけは達者だね」
「そ…そういう仕事なもんでね……」
「いいよ……引き分けって事にしておいてあげる」
白い手が、ハムスターを掬い上げた。
風が巻き起こり、目の前に立っていた二本の足がふわりと空に浮く。
「どうしよう……これ、洗濯して落ちるかなー……」
小さな呟きを残して、気配が消えた。
腹の傷を庇いながら体を起こす。当たり前のように、そこには誰もいない。
地面についた手をずらすと、指先に硬い物が触れた。手に取り、指の腹で汚れを拭う。銃は体温を吸って、まだ生暖かい。
しばらく手の中のそれを眺めた後、こめかみに当て、引き金を引く。
かちん、硬い音が頭蓋に響いた。
「ま、嘘も方便ってことで。
汝の敵を愛せ、か……実践するのもしんどいもんだな。痛いし」
とりあえず、現在の懸念はただひとつ。
「どうやって帰るかなぁ……」
遠くのサイレンにぼんやり耳を傾けながら、思わず長い溜め息が漏れた。
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「何お前、朝から張り切って洗濯してんの?洗濯機うるさくて寝てらんないっつーの」
「朝だから!張り切って洗濯してるんでしょ。さ、朝ごはん食べようよ」
「……なんかお前、今日はやけに元気いいな」
「え、そう?」
「牧師様、懺悔を……牧師様?」
「ふぁ……い?」
「明らかにあくびついでに返事しましたね?」
「大目に見てよー、昨日寝てないんだから。あ、理由聞きたい?」
「いえ別に」