In the bathroom

最近、にわかに視力が落ちた。

「パソコンの使いすぎじゃない?」

眼鏡をTシャツの襟に引っ掛け、瞼ををぐりぐりと擦っていると、ウサギが傍らにやって来た。

擦っちゃ駄目だよ、と俺の目を手で覆う。洗剤の爽やかな香りがした。

「洗い物してた?」

「そうだよ。誰かさんが仕事にかかりっきりで、食器が山積みだったから」

手が離れた。

しっとりと冷たい感触を名残惜しく思いつつ目を瞬かせていると、お風呂沸いたよ、と声が掛かった。

「アロマオイル、入れておいたから」

浴室に入ってみると、なるほど、立ち上る湯気から甘ったるい香りがする。

が、

「これ……入れすぎじゃねえ?」

表面に虹色の膜が出来ている。

匂いをかぎ、指先でつついてみて、体に悪い物ではないだろうし、と覚悟を決めて体を浸す。

一気に肩まで沈み、ふは、と息を吐く。

思いのほか不快感は無い。むしろ、つるつるした湯の感触が心地よい。

浴槽の縁に頭を預け、目を瞑る。少し眠ったかもしれない。

「キツネ」

名前を呼ばれて、はっとした。

目を開けると、裸のウサギが立っていた。少なからず驚く。

「な、何?」

立ち上がろうとして、バランスが崩れた。

頭が深く浴槽に沈む。体勢を立て直そうとするが、腕に力が入らない。

というか、腕が無い。

俺の体は、頭だけ残して消失していた。

「きれいに溶けたね」

俺の中に二本の腕が差し込まれたのを、はっきり感じた。

消えたのではない。俺の体は溶解し、ぬるま湯と一体化したのだと、溶けかけた頭で理解する。

ウサギの体が、俺の中に滑り込む。

表面に細波が立ち、俺はひどく落ち着かない気分になったが、それもやがて収まった。

「あったかい」

ウサギは呟き、両手で俺の一部を掬い上げた。

端にそっと口付け、一息に飲み干す。

ほう、と満足げな吐息が零れて、それっきり、浴室は柔らかな湯気と静寂に包まれる。

2008/11/11