いつから、どのくらい、そうしていたのかわからない。
意識を取り戻した俺の体は、どこかの廃屋の鉄柱に鎖で縛り付けられていた。
目の前には、満面の笑みを浮かべたウサギが大きな段ボール箱を抱えて立っている。
「おはよう!」
朝、教室で挨拶を交わす時とまったく変わらない調子で、ウサギは言った。
「よく寝てたね。疲れてた?」
「お前、何のつもりだよ」
「今日はねぇ、キツネにプレゼントがあります」
「早くこの鎖解け」
ウサギは段ボール箱の梱包を解き、中をごそごそと漁りながら、俺にしきりと話しかける。
そのくせ、俺の話に聞く耳を持つつもりは無いらしい。俺はイライラしながら、しかし他にどうしようもないので、ウサギのうきうきと弾んだ声にじっと耳を傾ける。
「僕なんかさ、学校でも地味な方じゃない?
趣味は読書とか思われてて、いじめられる事も無い。時々おとなしすぎる事をからかわれるだけ。
そりゃ平和だったよ?
でもさ、ある意味酷いいじめだよね、存在を感知されないって。
だからね、君が話しかけてくれるようになって、嬉しかった。
君はどう思ってるか知らないけど、僕は君の事、親友だと思ってる。
だから僕は君の願いならなんだって叶えてあげたい、だって親友だからね」
最後の方は低く呟くような早口だったので、頭の中で反芻してようやく意味を掴めた。
俺の願い?
「……なんだ、それ」
「え、忘れちゃったの!?
酷いなー、僕はちゃんと覚えてるのに」
ウサギは演技じみた仕草で驚いて見せ、にっこりと人懐こい笑みを浮かべた。
日常風景の一場面、いつも隣にあった表情。控えめで暖かい笑顔。
それがこの異様な状況下で、不気味に浮いていた。
「ほら、見て」
ウサギが段ボール箱を蹴飛ばした。箱の中身が、派手な金属音を鳴らして床に散らばる。
それはさまざまな形の白い金具だった。
ウサギはそれをひとつひとつ拾い上げ、こうかな?違うかな?としきりに呟きながら、白いビニルテープで括り合わせていく。
次第にそれは、なにかを形作っていく。細い金属の棒が組み合わされたそれは、傘の骨組みのようにも見えるが、それにしては平らで、巨大だ。
とうとう真っ白な金属が、俺が縛り付けられた柱を中心に張り巡らされた。
……これで、完成なのだろうか?
「ちょっと、ごめんね」
ウサギが俺の後ろに回りこむ。
じゃらり―――鎖が鳴って、上半身の拘束が僅かに緩んだ。
「な、何」
持ち上げた頭は、すぐ押さえつけられた。
「動いちゃダメだよ、危ないから」
熱を持った背中に、ひやりと冷たい感覚。体が強張った。
耳元で、二つの刃が擦れあう音。
床に落ちたのは、血ではなく、見覚えある色の布切れだった。
「泣かないで、キツネ。何も怖くないよ」
気が付けば、俺はすすり泣いていた。
しゃきん、じゃきん。
音に合わせて、服が裂かれていく。長く伸ばしていた髪も一緒くたに切られて、床に斑になって散っていく。
俺は悲鳴を上げた。はっきりした恐怖が、俺を支配した。
「ほらぁ、泣いちゃ駄目。ね?」
ウサギが俺の首に手を回し、子どもにやるようにぎゅっと抱きしめた。裸の背中を優しく撫でる。その手には鋏が握られたまま。
ふざけるな。
叫び声を飲み込んでガクガクと頷くと、ウサギはゆっくりと体を離した。
足元で、がちん、と音がした。
固まって動かない首を必死で捻ると、床に捨てられた鋏が見えた。いくらかほっとする。
……が、吐き出しかけた吐息を、俺は再び引きつる咽喉に吸い込んだ。
俺の優しい友達は、今、その細い腕に不釣合いなごついナイフを握り締め、もう片方の手で俺の頭を撫でている。愛しくてしょうがないという風に。
「ねえキツネ、僕たち友達だよね」
友達だ。友達だった。俺はそう思っ、て
「 」
瞬間、俺の思考は真っ白に吹き飛んだ。
その空白を、背中側から這い登ってきた痛みが埋める。
遠くでウサギが何か言っている。耳鳴りが酷い。
「キツネ、まだ少し切り開いただけだよ」
酷く優しいウサギの声。
これからもっと辛いよと言って、俺の口に轡を咬ませた。
ナイフは背中に突き立てられたのではなく、俺の肉をほんの僅か抉っただけだと、次の衝撃で思い知った。
「力、抜いてね」
「…――――――ッ!!」
何かが、背中に這入った。
めりめりと肉の隙間を押し広げながら、背骨に沿って差し込まれていく。
猿ぐつわのおかげで自分の無様な叫び声を聴かずに済んだが、意識を飛ばすような激痛に息が詰って、そんなものが無くとも声は出なかったかもしれない。
ウサギの手が止まった。轡が外された。
「ぅ、げほっ……ぁ…痛ぁ……っ…」
「ごめんね、麻酔を買うお金は無かったんだ。
その分、材料にはお金を掛けたからね。
なんでも、NASAで研究された軽くて丈夫な金属なんだって。
……ああ、やっぱりよく似合うな、キツネには白が似合うよ」
うっとりとした声で、ウサギは言った。
「な……んなんだ、よ……これぇ……」
喉が塞がって、上手く声が出ない。
「ひどいな、本当に忘れちゃったんだ……」
ウサギは笑った。泣きそうな笑顔だった。
ここまできて、俺はまだ『俺の欲しいもの』が何かも思い出せない。
視界からウサギが消え、代わりに、血と汗で汚れた俺の顔が大写しになる。
部屋の隅にあった姿見が、目の前に立てられていた。それを見てようやく、俺は俺の体に施された術式の全貌を見ることが出来た。巨大なそれの。
「ねえ、綺麗でしょ?」
鏡の後ろから、ウサギが言った。
俺の背中に突き立てられ、根元をボルトで固定された白い金属は、ある一定の規則でもって分岐を結合を繰り返し、最終的に部屋いっぱいに広がったそれは、俺の体を包み込む白骨の翼だった。
俺が体を震わせるたびに、骨の継ぎ目がちりちりと悲鳴を上げた。数百の雛が一斉に殻を破り、産声を上げたような音だった。
「寂しそうに歌う君を見ているのは、いつも、辛かったから」
そこだけ赤く染まった翼の根元を優しい手つきで撫で擦りながら、ウサギはそう言って、聞き覚えのある歌を口ずさむ。
いつか俺が放課後の教室で、或いは俺の部屋で、ギターを弾きながら歌っていた曲。隣にはいつもウサギがいた。
―――どうして飛ばないの?不思議そうな君の顔
ごめんね、始めから羽なんてなかったよ
「ねえ、幸せ?」
答えを返そうと開きかけた唇から、泡立った血が流れ落ちた。