「これは何?」
船の周りにポツポツと浮かぶ桃色の花弁を指差して僕が問うと、キツネは10フィート程の棒で器用に船を操りながら、ぶっきらぼうに
「花」
と言った。
「それくらい、僕にもわかってるよ」
「名前なんか無い。花は花だ」
「名前が無いの?」
「欲しけりゃお前が作れ」
「……本当に、ここはどこもかしこも作りかけなんだね」
「形があれば良い。俺はそれで十分だ」
キツネは振り返りもせず、ただ前方の闇をむっつりと睨みつけ、船を進める。
ここは、キツネが作った。気まぐれな芸術家である彼の美しい創作物たちは、無秩序に闇の中に散らばっている。名前さえ持たずに。
「じゃあ、僕が名前をつけてあげる」
闇の河に手を突っ込んで、一輪手折る。
僕の知っている限りではチューリップに限りなく似ているが、花弁はもっとずっと薄い。手のひらほどもある花弁の端を齧ってみると、透明で甘い味がした。
「おいしい」
「サクマドロップのハッカ」
「?」
「ウサギが好きな味」
「うん」
それから僕たちはしばらくの間、何も言わずに船に揺られ続けた。
僕はこの花に似合う名前を考えていた。キツネは何を考えているのだろう。
船の縁に頭をもたれて、闇に浮かぶ花をひとつふたつと数えるうちに、僕はいつの間にか、眠ってしまったらしい。
「着いたぞ」
キツネの声に、僕ははっとして顔を上げた。船は停まっている。
そこは、何も無かった。さっきまで水面にふわふわと浮いていた花は消え、ただ上薬をかけたような闇と静寂が空間を満たしていた。
「ここはどこ?」
「世界の果て」
「果て?」
「世界の果て。そういう名前」
「名前があるんだ」
「そう、ここだけ」
「でも、何も無いね」
「今から作るんだ」
キツネは10フィート棒を船の中にしまい、白い大きなお盆のようなものを取り出し、水面に浮かべた。
手を離すと、白いお盆は一瞬だけ傾いて、すぐに静止した。
「何?」
「月だ」
「じゃあここは、月のための場所?」
「違う。月は、そうだな……舞台だな、言うなれば。これじゃ、まだ未完成」
だから、ウサギが完成させるんだ、と言って、闇に濡れた手を無造作に服で拭いながら、キツネが笑った。
水面の月を覗き込んだ。それは既に闇と一体化して、たぷたぷと波打っている。
僕は、どうしたら良いのだろう?
揺れる月を指先でつつきながら考えていたら、とん、と背中を押された。
あ、と一言放り捨て、僕の体は月の上に投げ出された。
とぷん―――僕の体は丸ごと、闇に浸かった。僕は月とともに、どんどん闇の中に沈んでいく。キツネが船の上から笑っているのが見える。楽しそう。あんなに楽しそうに笑うキツネを、僕は初めて見た気がする。
薄く広がった月は僕の下でひらひらと頼りなく揺れていたが、次第に闇をはらんで膨らみ、それと同時に僕が沈む速度は、次第にゆっくりになる。
月は、とうとう僕の体をすっぽりと丸く被い、ふんわりと丸い形に落ち着いた。そして、今度はシャボン玉のようにゆっくりと浮上し始めた。キツネが手を伸ばして僕と僕を包み込む月を捕まえてくれなかったら、そのまま空の上まで昇っていってしまっただろう。
キツネは月と僕を見て、さっきよりくっきりと微笑んだ。
「うん、できた。綺麗だ」
「これで完成なの?」
「そう」
綺麗だと言われて何だか照れくさくなった僕は、早く手を離してよとキツネをせっついた。
キツネはちょっとだけ笑い、すぐに真面目な顔をして、さよなら、と呟いた。それを見て、僕は何故だか泣きそうになって、慌てて顔を伏せて、できるだけ明るい声でさよならを言った。
キツネの手が離れた。
ゆっくりと、船が、キツネが、遠ざかる。
僕は出来るだけキツネの顔を見ていたかったけれど、動き回ったら月が壊れてしまうんじゃないかと思ったから、我慢してじっとしていた。
息を三度吐く前に、キツネは完全に闇に呑まれてしまった。
代わりに僕の目には、あの花の明かりが映っている。
きらきらと揺れながら闇の中に咲いている花の名を、僕はキツネに伝え損ねてしまって、ただそれだけが悲しい。