街で男を買った。
榛色の小袖を肩から掛けた、皮膚病の犬のような目をした男だった。
手を引かれるまま入り組んだ路地を抜け、この男の塒らしい長屋の一室にたどり着く。竪框が斜めになった破れ障子をくぐる際、男に名を尋ねた。
「もう忘れっちまったね。アンタの好きに呼んだらいいさ」振り返りもせず男は云った。
ろくに家具も無いがらんどうの荒屋には、それでも申し訳程度の小さな中庭があって、小さな椿の木がうつぶく花を咲かせ、殺風景に薄紅を添える。その花の名を、男につけた。男は喜びも、拒みもしなかった。あまねく事に関心が無いという目のまま垢じみた固布団に転がっていて、無気力なその様子は糠に釘を打つような情事を予想させた。
が、一度事が始まると、男の態度は一変する。
指先の微かな刺激にも好がり、噛んでも抓っても殴っても、髪を振り乱し涙を流して歓喜する。互いの意味を成さない声と熱い息と繋がった場所の甘い疼きだけが心まで枯らした椿の男の生命の顕形、その証なのだと感じた。穴の奥まで咥えこみ、一物を擦り潰さんばかりに腰を回し、一度放ち萎えたそれもなかなか離そうとはしなかった。
事が済み、脱力した身体を床に並べ、その時初めて男の顔をつくづくと眺めた。美しくもない、ありきたりの青年の顔。汗ばんだ額に幾筋かの黒髪が張り付いていたのを手で撫で付けてやるとくすぐったそうに笑う顔はどこか幼気に見えた。
小柄な身体を押し潰すようにかき抱き、旋毛、額、左の瞼に口づけ、舌で愛撫し、そのまま喉を鳴らして吸い付いた。
男は凄まじい叫び声を上げた。背中に回された十本の爪が滅茶苦茶に肉を引っ掻く。それでもなお赤子が乳房をむしゃぶるように強く吸い続けると、急に唇にかかる圧が緩み、口腔に生ぬるい球と塩っぱい液体が流れこんできた。くっ付いてきた紐を噛み切って断ち、口の中のものを一息に飲み込む。
腕の拘束を緩め、体を離す。びくびくと痙攣しながらのたうつ男の舞踏めいた動きは捌かれる直前の頭をまな板に釘付けにされた鰻の動きによく似ている。
「あ、あ、あ」
闇雲に手を振り回す男の欲するものを理解して、代わりに引き寄せる。小さな鏡台。横になったままで見えるように傾けてやると血糊と涙で赤い斑に汚れた顔が映る。鏡像の男の左目と現実の男の右目が、きょとんとして顔を見合わせていた。
「ヒ、ひィ、ヒヒ、ぁ、アタ、アタシの顔、酷い、無い、ない、かお……はは」
未だもつれた舌でそれでも男は笑った。その表情は枕を交わす最中の気狂いじみた嬌笑よりずっと、生きていた。
痛みの為か、突然我が身に降りかかった兇変を受け入れられずにいるのか、彼は辛うじて正気を繋ぎ止めていた。彼にとっては不幸なことに。
「こ、こんな顔じゃ……客も取れや、しない。だから、ちゃんと、」
ちゃんと、終わりにして行って。
手が滑り鏡台が横倒しになり、はずみで開いた引き出しから鈴のついた和鋏が転げ出た。手に取り指先で刃を撫でる。鈍い刃だ。彼を更に苦しめるかもしれない。ふと思いついて、盆の上の湯のみ茶碗をひっくり返し、糸底に刃をこすりつける。「アンタ、貧乏たらしいこと知ってンだね」何をされるか予想がつくだろうに、男は笑って言った。とっくに覚悟は出来てンだ、アンタも腹括りな。なげやりで寂しげな笑い声はそう告げていた。
へそから鋏の刃を潜らせ胸に向かって刃を滑らせる。二寸も切らないうちに鋏が使い物にならなくなったので、傷口に指を突っ込み力任せに裂き開いた。爆ぜるように血と臓器が溢れだした。生きたまま反故される痛苦に男は脱糞していた。
医術の知識は全く無いが、どの臓器に鋏の刃を突き立てればより速やかに苦しみを終わらせることができるかおぼろげながら予想はついた。しかしそういう形の決着は彼には相応しくないと思った。腹からはみ出した腸を引き摺り出し、それで男の首を閉めた。手が滑り上手く力が入らない。男は口から泡を吹き滅茶苦茶に手足を振り回したが、抵抗といえるほどの力は残っていなかった。動きは徐々に弱くなり、小さく震えるほどになって、ふと我に返った時、既に男は死んでいた。
ふらふらと立ち上がり、死んだ男を見下ろした。それはただの死体で、おぞましく、恐ろしかった。
男の行李の中から綺麗な手ぬぐいを何枚かまとめて掴みとり、まとめて瓶の水に浸し、それで身体を拭った。見える場所に血がついていないかだけ念入りに確かめて、部屋を飛び出した。服が血で汚れなかったのは幸いだった。迷路のような路地を闇雲に歩く内に、見覚えのある通りに出た。そう暑い日でもないのに汗びっしょりの男を、道行く人々は胡散臭げに横目で眺めて通り過ぎて行った。
―――あれは去年の梅雨入り前、一年も前の出来事だ。
あれは夢だったのだろうか?あの近辺で死体が見つかったという話も聞かない。
それを証明するのは、あの時、男が背中に付けた爪の跡だけ――― 一年経った今でも時折、背中が疼くように感じることがある。そんなはずはないと思いつつ、確かめるのが怖くて、未だに閨事の床で服を脱ぐことが出来ない。