気持ちのいい夜だった。
満月のかかる空の縁はほんのりと白み、空気は程よく湿り気を帯び、甘こい花の香と若草の清しい匂いを微風がかき混ぜ吹き抜ける。そんな、気持ちの良い夜だった。
だからといった訳でもないが、縁側を開け放ち、月光の敷布に寝そべった男は、先刻から土間をちょろちょろ走る一匹の鼠に、晩飯を恵んでやろうという気まぐれ心を起こした。
酒の摘みにかじっていた干し芋をちょっと千切り、土間に投げる。鼠は一度は驚いて逃げ出したが、やがて鼻をひくひくさせながら戻って来て、地べたに落ちた芋の切れっ端を見つけると注意深い仕草で匂いを嗅ぎ、端をかじり、また匂いを嗅いで、ようやく干し芋のかけらを咥えた。
ありがとう で ございます
男は鼻をふん、と鳴らしただけで、鼠が喋ったことを特段不思議がる様子もなく、相変わらずゆるゆると猪口代わりの欠け茶碗を傾けている。
ぅお、なーぉ……
庭から、黒蜜をたらりと落としたような、甘ったるく後を引く鳴き声がした。
荒れ庭に転がる無数の影のひとつが飛び上がり、音もなく月光に照らされた縁側に着地する。蟠る影は光の中でもその輪郭をくっきりと保ったまま、なお黒々と居座っていた。それは、一匹の黒猫だった。
男は酒を呑む手を一旦休め、黒猫をじっと見た。黒猫も男をじっと見つめ、再び鳴いた。
男が茶碗の酒にに人差し指の先を浸し、黒猫の方へ差し出す。黒猫は全く無防備に男の側へ歩み寄り、指先の匂いをひと嗅ぎして、赤いざらざらした舌で舐めた。
「美味しい。でも足りない」
黒猫は、いつの間にか、四つん這いの若い男へと変貌していた。
「これっぽちじゃ呑んだ気がしないよ」
若者は赤い舌で物干しげに唇を舐めている。
男は返事の代わりに、酒瓶と、茶碗と干し芋の乗った盆を若者の方へ押しやった。手酌でやれ、ということらしい。
不意に現れた若者に、問いかけのひとつも投げずに、また、裸に女の小袖を掛けただけの己の格好を恥じる風でもなく、男はただ気だるげに尻を掻いている。
若者もまたそんな男の様子を気に留めず、我が家とばかりに寛ぎ胡座をかいて、柱にもたれ呑んでいた。
「まったく気持ちの良い晩だ」
若者は、しみじみと月を眺めて言う。
「空模様良し。風も良し。温度湿度も申し分なし。月は輝き、白々しい闇。ちぐはぐで粛々と心が踊る夜。しかし君たち、だからといって浮かれすぎると向こう側へ転がってしまうよ。季節外れの肝試しかい?」
若者の声を聞き流していた男も、さすがにはっと若者の顔を見た。若者は庭でも、男でもなく、部屋の反対側、道に面した窓を見ている。窓には目隠しの簾が掛かっていたが、その向こう、確かに複数人の人影が息を詰めている気配がした。
若者は猫が咽喉を鳴らすような音で低く笑い、右手の中指と人差し指を揃えて伸ばし、空を真横に切った。と、ばらぼろんと音を立て、簾がほどけ落ちた。男は少し驚いた表情で床に散らばった簾を見て、それから窓へ目を移す。
窓の向こうに、三人の年端も行かぬ少女たちが、三種三様の表情でつっ立っていた。
真ん中の、真っ白な薄手のワンピースを着た少女は、はじめは顔を真っ赤にしていたが、男と目があった瞬間からみるみる顔が青ざめ、足がわなわなと震え始めた。
その右隣、赤いワンピースの裾を両手で握り締め、まっすぐに立ちつくした少女は、隣で震えだした友人を見るや、彼女の細い腕を引っ掴み、脱兎の如く駆け出した。
取り残された三人目の少女は、その間、驚愕を顔に貼り付けてぽかんと口を開けていたが、男の視線に気づき、少年のように短くした頭をぱりぱりと掻きながら恥ずかしそうにはにかんで一礼し、のんびりと友人たちを追って駆けて行った。
男が振り返ると、若者は跡形もなく消え失せ、若者の座っていた場所に、空になった茶碗が影を敷いて置いてあるだけだった。
男は茶碗に手を伸ばし、酒を注ぐと、再びゆるゆる飲み始めた。しかしその眉は心なし眉間に寄っている。
なにかおかしい。
酔夢にしては、頭も感覚も随分はっきりしている。
行雲流水が信条のこの男も、さすがに妙な気配を感じ始めていた。が、
(さて、夢か現か、魍魎の悪戯か知らないが……)
解ったところで打つ手のある訳でなし、夢なら覚めるのを待つまでと腹をくくり、かつ、かつ、と飲み干した茶碗を噛みながら、酔いの廻った目で、月の庭を眺めていた。
それから何杯空けただろうか。
「やあ、侘助」
戸口から声がした。
そら来た、男は待っていたとばかりに振り向いて、声の主を睨めつける。が、それが馴染みの客と判り、拍子抜けしたようにかくりと首を傾ぐ。
「……なんだ、旦那じゃないのさ」
侘助に旦那と呼ばれた赤毛の男は、金色の目をすぅと細め、静かに笑った。
「なんだとはご挨拶だな。そんなに酔っ払って、さては待ち人に振られたか」
「馬鹿……そんなんじゃないよ」
やるならさっさと上がりな、と侘助が言う前に、初夏の日差しのような若い女の声が室内に放たれる。
「あらっ、こちらが旦那様のお友達ですのね!私にもご挨拶させてくださいな!」
「お友達?」
侘助が赤毛の男を見る。男は目を逸らす。
「……まぁ、いいけどさ」
侘助が言ったのを了解と受けたのか、赤毛の男の背後から、声の印象を裏切らず朗らかな娘がぴょこりと顔を出した。
「はじめまして侘助さん、私、旦那様のお屋敷でお世話になっ……きゃっ!?
あ、あらまぁ……その、侘助さん、お召し物が……いえ、お召し物はとっても素敵ですわ!
でも、なんというか、すこぉしだけ乱れていらっしゃるような……」
挨拶を始めたかと思うと、顔を真っ赤にして再び背中に顔を隠してしまう。
落ち着きのない娘だ。侘助は顔をしかめた。赤毛の男は忍び笑いを漏らしている。
「まあなんだ、確かに若い娘にはちょっと刺激が強いかな」
「アンタが勝手に連れてきたんだろ……大体、こんな夜更けにおぼこ娘連れ歩くなんて、非常識じゃないかい」
「ほう、お前の道徳を解かれるとは思わなんだ」
笑っていうのに舌打ちで返し、なお酒盛りを続けようとする侘助を制するように、赤毛の男は上がりかまちに脱ぎ散らかしたままだらしなく垂れ下がった帯を拾い上げ、侘助に投げやった。帯はてろりと空を泳ぎ、侘助の頭に引っかかり着地した。じとりと睨む目に、赤毛の男は涼しい視線を投げ返す。
「帯くらい閉めろ、これから出かけるんだ」
男は笑い声で、しかし、有無を言わせるつもりはない、という調子で言った。
* * *
「嘘」
「本当さ」
「夢でも見たんだろ」
「寝ぼけるような歳じゃない」
「……あぁ、」
「惚けが始まる歳でもないよ……」
月で昼のように明るい夜道に、減らず口を叩き合う二人の男と、男達をにこにこ見ながら一歩後をついて行く一人の女の影があった。
侘助が、ため息混じりに言う。
「丑三つ時に店開ける、馬鹿な飯屋があるもんか」
ある、と赤毛の男は言うのである。そこへ行こうじゃないか、と。
馬鹿馬鹿しいと思いながら、只飯にありつけるとあればつい連れだされてしまう我が身が悲しい。
大して歩いた気はしないのに、気がつけば辺りは侘助も見覚えのない道になっている。
幾つ目かの知らない角を曲がると、目の前が開けた。涼しい風が髪を撫ぜる。道は川に当たり、左右に分かれている。
「ここは左だ」
「それじゃぁ元来た方に戻っちまうよ」
「さあ、どうかね」
赤毛の男は意味深に微笑む。侘助は忌々しげに舌打ちをした。
こんな時間だというのに、河原では二人の子供が麻袋でできた鞠を追いかけて遊び、それを歳の離れた姉か、若い母親だろう女が眺めている。この辺りでは珍しくない光景だったが、女の頭には獣の耳が生えていた。
少し離れた川端では、遊ぶ子供らより少しばかり年上に見える白いシャツを着た少年が、ひとり物思いに耽っている。
三人は足を止め、しばらく子供たちの微笑ましい様子を眺めていた。よく見ると、鞠は拙いつくりながら手足を省略した猫の形を模しているらしく、見ていて哀れになるほど、子供たちは麻袋の猫を力いっぱい蹴り飛ばしている。
洋外套の真似事か、縹色の風呂敷の片端を首に結んだ男童が一際高く鞠を蹴り上げた。鞠は山吹色の着物を着た女童のいっぱいに伸ばした両手の遥か上を飛び越え、川端にしゃがみこんでいた少年の背中に当たった。少年は体制を崩し、砂利石の上に手を付く。
「すまーん、怪我はないかー!」
「まったくもう、あぺがごめんなさいでしゅ。なにやってるでしゅか」
「オマエがあんなに蹴るのが悪いんだろ!」
「過ぎたことは忘れるでしゅ。おにーさーん、それ投げてでしゅー」
少年は立ち上がり、手を振って叫ぶ子供たちの方へ振り返る。その表情には怒りも笑みもなく、まったくの無表情だった。
手に握る杖で河原をざらざらと乱暴に撫で、足元に落ちた鞠を探り当てる。杖づたいに手を這わせ鞠を拾い上げると、はじめて少年はにっこりと微笑み、そして、手にした鞠を力いっぱい放り投げた。川の中へと。
「はい、投げたよ」
仮面のように完璧な微笑みのまま少年は言い、あっけにとられる子供らの隣をすり抜け、道に上がり、侘助たちと反対側の道を歩いて行った。
「ったく、なんて餓鬼だ」
侘助が吐き捨てる。「親の顔が見たいよ」
「あの子にも色々あったんだ、性根は悪い子じゃないんだよ、ひねくれているだけでね」
赤毛の男が苦笑して顎を撫でる。
「何だ、アンタ、知ってる子?」
「まぁ……そうだな。片親と知り合いでね。親譲りのへそ曲がりだな」
「ならそいつによく言っときな。
ああいうのはね……親の前じゃ聞き分けのいい振りして、影で悪さする餓鬼ってのはね、親も周りの大人も見下してんのさ。それでいて、大人に怯えてる。
大人びたようだって、餓鬼は餓鬼なんだ。ああ放ったらかしにしておいたら、将来ろくな人間にならないよ」
「ふぅむ、お前は道徳だけでなく、教育論にも聡いんだなあ」
「何さ!アタシはただ……」
「わかったわかった」
眦を釣り上げる侘助を諌めるように赤毛の男は声をかける。その眼差しは意味深に優しい。
「今度会ったらよく言っておくよ。親に似たろくでなしに育たないよう、しっかり愛情を注げとね」
「……フン」
二人の男が他愛ない会話を交わす間、ずっと河原の子供連れを眺めていた少女は、ひとり首を傾げていた。
(あのお姉さんの言ってたこと、どういう意味かしら?)
少女の頭に引っかかっていたのは、鞠を捨てられ大騒ぎする二人に、女が言った一言だ。
「ま、そのうち自力で帰ってくるんだね、ん」
(どうやって手足のない鞠が、ひとりで川から上がって帰ってくるのかしら……)
しばらく考え込んでいたが、主人と連れ合いの声が遠ざかったのに気づき、慌てて小走りに追いかける。子供たちと女も、家へと引き上げて行くようだった。
その頃、少し川を下った場所で、運良く川面に垂れた木の枝に引っかかったものの今度は木の棘に身を捕られ二進も三進も行かなくなったずた袋の鞠が、のーん……と悲しげな鳴き声を上げたが、そのか弱い声は水音にかき消され、遠ざかる背中たちまで届くことはなかった。
* * *
「もう付くはずだ。そこの路地に入ると、すぐだ」
募る苛立ちを項に漂わせる侘助に、背後から赤毛の男が言う。
その言葉はその場しのぎの言い訳ではなかったようで、はたして件の店は男の言う通りの場所にあった。
古めかしく着色された洋風の門構えは、周囲の風景から孤立することなく、見事に溶け込んでいた。扉の横に植えられた木には、薄紅の綿を凝ったような花が咲いていて、そこから、色付く芳香が立ち、店のあたりを取り巻いて漂っているように感じられた。
「まあ、綺麗」
「合歓の花。まだ節には早過ぎるけどねェ、せっかちな木があったもんだよ」
赤毛の男が扉を押し開ける。鳴子のあっけらかんと乾いた音色が店の中に響いた。冷々と降り注ぐ月光の世界から洋燈の飴色の灯りの中に踏み入ると、内も外も気温はさして変わらないはずなのに、体が温もりを得たような気がして、三人はそれぞれ息を吐く。
外から見たよりもこじんまりした店内は、すでに先客で二つの席が埋まっていた。
店の最奥、灯もぼんやりとしか届かない薄暗い席で男が向かい合い座っている。どちらも約やかに振る舞っていたが、どこかちぐはぐな印象があった。
ひとりの青年は線が細く、夏にはまだ早いというのに袖のないシャツ一枚しか着ていない。一口飲んだ珈琲の味が気に入らなかったようで、僅かに首を傾げ、席に据え置かれたうぐいす色の小壺から無造作に四つ五つの角砂糖を掴み、珈琲の中に放り込む。
もう一人、黒ずくめの少年はまるで影のように椅子にへばりつき、卓に落ちた水滴を指先で伸ばし、意味の無い図画を描いている。
「いらっしゃいませ」
食器を磨く手を休め小さく会釈する店主に、赤毛の男は慣れた仕草で軽く右手を上げて見せる。店主は頷いて返し、洗い物を切り上げ、背後の棚に並んだ缶の列を眺めはじめた。やがて、その内のいくつかを取り出し、少し思案して、そこからまたいくつかを棚に戻す。
三人は、調理場の前に設えられた長卓についた。屋台のように、店主と向き合う格好になる。
「変わった店だね」
椅子の座りが悪いらしく、もぞもぞと尻を動かしながら侘助が言う。
「海外から取り寄せた家具をそのまま使ってますもんで」
缶の蓋を開けながら店主が答える。
「あらマスター、この店のインテリア、私はとても好きよ。故郷を思い出して」
女の艶やかな声を聞いて、彼らはやっともう一人の先客の存在を知る。
すぐに気がつけなかったのは、その先客が、卓上の金魚鉢の中に、魚尾そっくりの下半身を浸していた為だった。
人魚が、金魚鉢に満たされた黄金色の水の中でくるりと尾を回すたび、鱗がちりちりと星屑の輝きを放ち、一際、甘苦い香りが立ち昇る。
「私も気に入っているんだ。気が合うね」
「そうかしら。私はそうでもないと思うわ。貴方、嘘つきの眼をしてるし。嘘つきは嫌いよ」
つんとそっぽを向く。侘助が引き攣った笑い声を上げた。
「ヒッヒッ、ざまァないね!」
店主は苦笑を湯気の向こうに隠し、三人の前に茶杯を並べた。赤毛の男はすまし顔で、自分の前に差し出された杯に口をつける。
少女は主人がカップを置くのを待ち、杯を大事そうに両手で包み持ち、唇を添えた。
侘助はあっという間に茶を飲み干し、しきりに杯の縁を指でなぞっている。
「飲みつけない茶だねェ……」
「ローズマリー、エキナセアというハーブ…西洋の漢方茶みたいなもんですか。お口に合いませんでした?」
「ふぅん……まァ、不味かないよ」
侘助が黙ると、店に穏やかな静寂が落ちた。薬缶が蒸気を吹くしゅうしゅうという音が温かい。つかの間、心地良い閉塞を味わう。
がらり。椅子を引く音がそれを裂いた。
「じゃあ、俺はこれで。お金、ここに置いておきます」
告げた言葉の前半は同席の少年に、後半は店主へ向けられて発せられたものだった。少年は何も答えない。店主はまたおいで、と気安い返事を返した。
店を出た青年は、窓の前でふと足を止めた。しらしらと降る月光を浴び、じっと空を見つめている。身につけていた一枚きりのシャツを脱いだ。口を浅く開き、肩が上下している。
しばらく荒い呼吸を繰り返していたが、くっ、と唇を噛み、両腕で体を抱くようにして上身を前に屈めた。夜空へ晒された背中の肉が不自然に隆起し、それは律動的に膨張と収縮を繰り返しながら次第に大きくなっていく。
ついに、膨らみきった焼き餅が爆ぜるように、背中の皮膚が裂けた。血は零れず、赤い裂け目からくしゃくしゃに丸めた白い布のような何かが噴出した。白い布はゆっくりと、八方から見えない手に引き伸ばされるように広がっていく。ついにそれは、完全な蝶の翅のかたちになった。青年はもう俯いてはいない。すっと背を伸ばして空を仰いでいた。
青年が力強く大地を蹴る。白く細い体が宙に浮いた。空中に留まったのは瞬く間で、次の瞬間には、青年の体は稲妻のように空を駆け上り、消えた。
胸が三つ打つほど間をおいて、青年がいた場所へ、ふうわりと、白い布が落ちてきた。
「あーあ、まーた落としてったよ」
店主が呆れたように首を振る。青年が着ていた薄手のシャツが窓枠に引っかかり、風に弄られるひらひらとそよいでいる。
「私たちも立とうか」
「ふぇ? あ、はい!」
窓に目を釘付けにして、杯を抱きしめるように両掌に包み持っていた少女が、主人につられ跳ねるように椅子から立ち上がる。
戸口まで行きかけて、付き添う気配が足りないことに気付き赤毛の男が振り返る。侘助は人魚の入った鉢へ飲み干した茶器を潜らせて、なみなみと洋酒を汲み上げ口へと運ぶ。鉢の中の酒は人魚のへその下まで減っている。人魚はくすくす笑う。侘助もけらけらと笑っている。
店主だけがすまなそうな視線を、赤毛の男へ投げかけていた。
* * *
それに気づいてからしばらく、赤毛の男は侘助へそのことを告げるのを逡巡した。
しこたま酔っ払った彼がその事態を知った時、どのような反応を示すか想像に難くなかったからだ。
「侘助よ」
「何さ?」
「我々はどうやら出口のない昏迷の内に踏み入ったらしい」
「はァ?」
「平たく言えば、道に迷った」
「ええっ!」
素っ頓狂な声を上げたのは侘助ではなく、足取りの覚束ない彼をほとんど負ぶうように支えて歩いていた少女だった。
侘助はというと、今ひとつ言葉の意味を飲み込めていないのか、しばらく酔いでぐらぐら揺れる眼で赤毛の男を見て、今度はけたけたと笑い始めた。
「何いかれたこと言ってんのさ、もうそこがアタシの家じゃないか」
いかれてるのはお前だよ、と、さすがに声には出さず、赤毛の男は肩をすくめて侘助の小柄な体を抱え上げた。腕の中で、不服そうなくぐもった声が上がる。
「ちょっとォ、何処に連れ込もうってのさァ」
「あああ、天の果てにも連れて行ってやるさ。今度な。だからとりあえず、家に帰ろう」
「だからァ、そこだってのよォ。ほら、すぐそこ、アンタの後ろのあばら屋……」
呂律の回らない戯言は、最後が眠気に滲んでいる。
「もう、侘助さんたら、完全に酔っ払っちゃってるのね」
少女は大人の失敗を見つけたこどものように大人びて悪戯っぽい笑顔になって、背後の竹藪を振り返った。が、
「あ、あら? そんなはずないわ、だってさっきまで確かに……」
そこには侘助の言う通り、藪に隠れるようにして古ぼけた一軒家が建っていた。
仄かな光を外へ伝える障子に人影が映った。灯火が揺れるたび、投影された影も妖しく蠢く。
「うぅん、私もお酒の匂いで酔っ払っちゃったのかしら?」
少女は目を白黒させて、不安そうに主人を仰いだ。
赤毛の男は表情のない目で障子の影を凝視していた。口元には何時もの、好奇心と不敵を言葉より雄弁に語る少年の笑みが浮かんでいて、少女は少しほっとする。
「まあ、本人が言うなら、ここは侘助の家なんだろうさ。行ってみようじゃないか」
侘助を抱えたまま、ざくざくと竹藪へ踏み込んでいく。少女もおたおたと後を追う。
藪を通り抜け、荒れた庭に出ると、眠ったとばかり思っていた侘助が急にじたばたともがき始めた。
「ちょっと、降ろしとくれよ!アタシ餓鬼じゃないんだ、一人で歩けるよ」
「わっ、侘助さん、人のお宅でそんなに大きな声を出したら迷惑に……」
「だからぁ、ここはアタシの家なんだよう!」
障子が引かれる軽い音がした。
少女が息を飲む気配がする。赤毛の男は侘助をそっと地面に下ろした。地に足が着いた一瞬ふらついて、それでも誰の手も借りず、頼りない足取りで月に照らされた縁側にたどり着き、倒れこむように寝転んだ侘助の頭を、骨ばった手が撫でた。
「まったくこんな時間に……どこで道草食ってたんだい?」
朧雲を流す風のような声が優しく叱る。侘助は嬉しそうに声の主を見上げ、ごめん、兄ちゃんとささやくような声で言った。
縁側に腰掛けた腺病質の男は、侘助と左程変わらない歳に見えた。気がつかないのか、関心がないのか、庭に立ち尽くす二人には目もくれず、膝にしなだれる弟の髪を撫で付けている。
何か言いかけた少女の口を、赤毛の男が素早く塞ぐ。
規則正しい呼吸で、どうやら本当に眠り込んでしまったらしい侘助の頬を両手で抑え、兄が顔を寄せる―――
瞬間、凄まじい悲鳴が響いた。
それは兄の口から飛び出した絶叫だった。膝の上の弟を力いっぱい跳ね除ける。縁側から弾き落された侘助は、縁石に思いきり尻を打ち、庭に転がり落ちた。
「いッ、痛ァ……ったく、何だってんだ……」
「酔いは冷めたか?」
赤毛の男が侘助の両手を掴み、強引に引っ張り立たせる。
ぶつぶつ言いながら腰を摩っていた侘助は目の前の光景に気がつくと、血の気の引く音が聞こえるほどあっという間に真っ青になって、震える唇に掌を押し当てた。
「あ、あ、あ、嘘だ、なんで、兄……」
「侘助、まあ落ち着け」
「お、落ち着けって……」
「まだ気が付かないのか?」
「何に!」
悲鳴めいた問いかけに答える前に、赤毛の男は懐から一振りの短銃を取り出し、筒先を空へ向けた。蔓薔薇を模した装飾の窪みに月の光が溜まり、黒い金属の上に零れ伝い落ちる。
「今日は朔夜だ」
引き金を引く。鮮やかな破裂音。見えるはずのない弾の軌跡を追って、少女と侘助は月を見上げる。
月の中心に、ふつりと小さく穴が開いた。と、穴を中心に赤い染みがじくじくと月の表面に広がって、同時に満月の輪郭がぐなぐなと歪んでいく。最後には、それは一匹の兎の形になって、赤毛の男の目前にぼたりと落ちた。
縁側にわだかまった、侘助の兄が着ていた着物の中から茶色い風が飛び出し、ぐったりと蹲る兎と赤毛の男の間に割って入った。男は何事もなかった風にすました顔で懐に銃を仕舞い、歯を剥いて唸る狐に意地の悪い笑みを向ける。
「赤き地の先住民はコヨーテを遠ざけるため集落の周りにエキナセアを植えたと聞いたことがあるが、狐にも効き目があるのか?」
「知るか。くそっ、口からとんでもねぇ匂いさせやがって……」
狐はさかんに前足で鼻を擦っていたが、体の下で白い獣が動いたのを感じ、全身で庇うように三人に背を向け、体を丸く曲げる。
「キツネ、ごめんね……しくじっちゃった……」
兎が弱々しい声で言う。
狐は気遣わしげに白い毛皮に空いた赤い穴を舐めた後、恨みがましい目で赤毛の男を睨んだ。
「ここまでする必要はなかっただろ」
「それはこちらの台詞だな」
男はもう笑ってはいなかった。剣呑な光を帯びた目が狐を見据える。
「途中までの趣向は楽しませてもらったが、これは頂けないな。死人を悪ふざけのだしに使うなど、悪趣味の極みだ」
「それは、悪かったと思ってる」
狐は力なく項垂れた。言わされた風ではなく、心からの謝罪らしいように見えた。
「もういいよ……とどのつまり、今夜のおかしな出来事は何もかも、狐と兎に化かされて見せられてた悪い夢ってことだろ。アタシはそう気にしちゃいないよ……」
確かに途中まではなかなか面白かったし、と、照れくさそうに首の後ろを掻いて付け足す侘助に、狐は少し嬉しそうな目をした。
赤毛の男が懐に手を入れる。狐の体が強張った。
しかし、懐から取り出されたものは物騒な黒鉄の塊ではなく、同じく黒くはあったが、柔らかな毛玉のようなものだった。
「傷を負わせた責任は取ろう。こいつは『塞ぐ』ことに関しては玄人だ。安心して任せてくれていい……」
毛玉の上に二本の耳が立ち、男の掌からぴょんと飛び降りる。仔兎の半分もない体躯の黒い兎のような生き物は、てんてんと白い兎に跳ね寄って、傷口に鼻先を寄せ、ふんふんと匂いを嗅ぎ、男のほうを振り返って頷くように頭を動かした。
侘助が覚えていられたのはそこまでだった。
夢と朝の境に明確な線を引くことができないように。
気がつけば三人は荒れ野原の中にいて、そこには竹林も古い家も二匹の獣も、はじめから存在していなかったように影も残さず消え失せていた。そして、それは実際にその通りなのだろうと、まどろみから引き戻されたような心持ちの中で、侘助は思う。
「あら、ここ、お屋敷の近くの野原だわ!見覚えがあるもの」
少女が甲高く叫び、赤毛の男はいつになくそわそわした様子で落ち着きなく辺りを見回し始めた。
「ふむ、お前は先に帰っていなさい。私は彼を送ってから戻るから」
「それは別にいいけどさ。何をそんなに慌ててンだい」
「うるさい女中に見つかっては都合が悪いからで御座いましょうね」
五寸釘を打ち込むようにこめかみを貫く女の声。赤毛の男は、ゆっくりとぎこちなく声の方へ向き直る。
野原の向こうの道に、背の高い女が腕組みして立っていた。赤毛の男と少女の顔色が変わる。
「真夜中に若い女中を連れ出した件、私が納得出来る答えは用意しておられまして?」
「いや、あの」
赤毛の男が顔に作った懇謝と弁明の表情は、厳格を絵に描いたような女の鼻息ひとつで消し炭に変わる。
「いえ結構。旦那様が何と仰ろうと、私は納得などできません。到底できませんね。こんな非常識な行為に」
「そんなに旦那様を叱らないでくださいまし!私は無事ですし、とっても楽しかったですもの。それに……」
「貴女も貴女です、本来であれば貴女が旦那様をお引きとめせねばならないのですよ。それを浮ついた気持ちで誘いに乗ってふらふらと」
「あ、そ、それは、えっと」
「何です、言いたいことがあるならはっきり言いなさい、口の中でもごもご喋らない!」
「は、……ごめんなさい」
提灯の灯りに下側から焙られ、闇の中に浮かぶ女の顔はまるで羅刹のように二人の目には映ったことだろう。
侘助はといえば、己が身に飛び火しないうちに、さっさとその場から逃げ出していた。歩き慣れない道だが、ここが狐の夢の中で無いのなら、いつかは知る道に行き当たるだろう。
袖に仕舞いかけた左手を、誰かの冷たい手が掴んだ。ぎょっとして隣を見る。
息が止まった。
「―――ど、どうして」
「お前が小さな頃は、よくこうやって手を繋いで歩いたなぁ。こうしてないと、すぐにどこかへ行ってしまうから……」
昔は見上げていた顔が、今は同じ高さにあって、あの日と変りなく笑っていた。晴れがましいのに、どこか胸を刺す切ない笑顔。
吐き出しかけた言葉はことごとく喉の奥に詰まり、再び腹の底へ沈んでいった。呼吸も儘ならず、優しい声に頷くことしかできない。
「あんまり心配かけることばかりするんじゃないよ」
「うん」
「でも、まぁ、たまには迷子になってみるのも楽しいだろうな」
「うん」
「道に迷ったら、どこだって、兄ちゃんが迎えに行ってあげるから」
「……うん」
握る手に力を込め、追懐の道に、新しい言葉を付け足す必要は無いと知る。
夢か現か、魍魎の悪戯か知らないが……
もう少しだけ、朧な春の夜の夢に、興じていても構わないような気がした。
帰路を行く兄弟の上で、満月が輝いていた。