夏の無人駅。
立ち上る陽炎、響く蝉の声、空はセルリアンブルーのアクリル絵の具を流し込んだように青く。
「ザ・田舎!……って感じっすねぇ」
ひとり言を呟きながら、待合室のベンチに長々と寝そべる私は、スケッチ旅行の帰り足。
1ヶ月前、101回目の落選通知を受け取った。1週間前、バイトを首になった。明日、28の誕生日。
「ザ・負け組って感じっすねぇ。ははは」
笑えない。
電車がやってきた。
やれやれと、手の甲で顎の下を拭いながら乗り込む。
車内は冷房が効いていて、中に入った瞬間、すうっと汗が引く。気持ちいい。
と、後ろから。
じゃま です
小さな小さな、きいきい声。
「あっ、すんませっ!」
誰も乗ってこないつもりでいたから、うっかりドアの前で立ち止まってしまった。
慌てて飛び退く。が、後ろには誰もいない。
「……んん?」
夏の怪談にはちょっと、時間が早すぎやしないかい?
というか、さっきの声、子供にしたって位置が低すぎやしなかったか?
足元を見る。
どうも
「……ど、どうも」
ねずみがいた。
そして、喋った。
呆然とする私と、一匹のねずみを乗せて。
電車が、走り出した。
* * *
向かいの窓ガラスに映ってる、風呂敷包み背負ったねずみと並んで座ってる女の人はだあれ?
私だ。間違いない。
隣を見る。ねずみは器用に座席に座って、窓の外を見ている……たぶん。
冷房の効いた車内なのに、私は背中に変な汗をかいている。
「あ、あの……聞いてもいいかな」
意を決して話しかける。
なんでしょう か
ねずみは前を向いたまま、丁寧な口調と控えめな声量で私に応じた。
「ねずみだよね?」
ねずみ です
「これ、電車だよね?」
でんしゃ です
「き……切符は?」
いやいやいや、話題のチョイスを間違えてるよ、私。
かい ました
風呂敷包みには、ちゃんと切符がさし込んであった。
……やるじゃないか、ジャパンレールウェイズ。
たたん、たたん。
快速列車は、長閑な風景の中を走る。
電車の揺れに合わせ、灰色の毛玉も、ぴょこん、ぴょこんと座席から数センチ浮き上がる。
「……大丈夫?」
ひじょう に かいてき です
「なら、いいけど……」
でも さっき たべた かえる が
くち から でて くるよう な
「……駄目じゃん」
ねずみを膝の上に抱き上げる。
ねずみは抵抗するそぶりも見せず、膝の上の窪みにちょこんとおさまって、満足そうに、
ちゅう
と、鳴いた。
「おお、なかなか可愛いじゃない」
よく いわれ ます
「はは、言うねぇ」
もう、喋るねずみの存在を、不思議だとは思わなくなっていた。
当たり前に、そこにいる。
昔は、そんな存在を、もっとたくさん知っていた気がするけれど。
「ねずみ、どこから来たの?」
ずっと ずっと とおく から きました
「……で、どこ行くの?」
… どこ でしょう
「……もしかして、忘れちゃったの?」
… ちゅ
小さく鳴いて、しょんぼり鼻先を落とす。
しまった。
「ま、まぁ……
あてもなくひとり…いや、一匹旅ってのも悪くないんじゃない?
そのうち思い出せるって」
…
「なんつーか、その……いろいろ見て回るうちに、ひょんなことで思い出すかもよ」
ひょん です か
「そうそう、ひょん」
では ひょん を さがし ます
「……う、うん。頑張れ」
ちょっと間違ってるけど。
あ、そうだ。私はねずみに提案してみる。
「それとも、私と一緒に来る?」
いっしょ …
ねずみが私を見上げた。
どこ ?
「どこって……おうち。私の家。来る?」
この面白い生き物と一緒に暮らすというのは、かなり魅力的な思いつき。
仕事はクビになったけど、ひとりと一匹、やっていけないこともない。
ねずみは首を傾げ、何か深く考えている様子だった。
ガタン。
電車が止まった。終点のアナウンス。
ねずみが、私の膝から飛び降りた。
「……行かない?」
… ちゅ
「ははは、そんな申し訳なさそうな顔しなさんな」
正直、とても残念だったけど。
おもい だした から
「目的地?」
はい
「で、ねずみはこれから、どこに行くの?」
ねずみは、シートに座りなおし、背中の風呂敷包みを揺すり上げる。
つやつやしたボタンのような黒い瞳に、小さな小さな、夕空の一番星のような明かりが点った。
おうち に かえり ます
* * *
電車を降りる間際、振り返ってみた。
ねずみが私に頭を下げていた。
ありがとう ひょん さん
なるほど、確かに私は彼(?)にとっての「ひょん」になった訳だ。
「うん、ばいばい」
勢いをつけて、ホームに降りる。
誰もいない車内に手を振る私を、駅員が怪訝そうな顔で見ていた。
私が降りるのを待ちかねたようにドアが閉まり、小さなねずみを乗せた電車は、来た道を戻って行く。
ねずみもまた、来た道を戻る。
長い時間をかけて歩いてきた道程を、同じだけ長い時間をかけて。
遠い遠い場所、ねずみの「おうち」がどこにあるのか、私は知らないけれど。
辿りついてほしい。いや、辿りつける、絶対。ねずみの、きらきらひかる黒ボタンの瞳を思い出して、ひとりうんうんと頷く。
「さて、と」
私も帰ろう、私の家へ。
そして描こう、旅するねずみの物語。長い長い時間がかかるかもしれないけれど。
1ページ目の構図はもう決まっている。
セルリアンブルーの空を背景に、風呂敷包みを背負って歩き出す、灰色ねずみの後姿。