さらば愛しき闇夜

彼はいつもの場所で待っていた。

大きな樅の木がある教会の、鐘撞堂の屋根の上。

「待った?」

後ろから、そっと声を掛ける。

「いいや」

彼は振り返り、笑った。

「嘘。随分待ったんでしょ?」

「どうして?」

「貴方は嘘しか言わないから」

「まさか、僕は今まで一度だって嘘をついた覚えがない」

「自覚がないのね。病的な嘘つきだわ」

「酷いなぁ。  ……そうだね、いつでも君の事を考えているという意味では、確かに僕は君を待っていたかもしれない」

いつもこの調子で、私は彼が、他人を責めているところを見たことがない。

のらりくらりと、耳触りのいい理屈で相手を丸め込む。笑顔の仮面の裏に、仄暗い本心を隠して。

「貴方って、」

「?」

「油断のならない人ね」

「……そうかな」

胸が破裂するような爆発の音がして、夜空が一瞬、真昼のように明るくなった。

二人で空を見上げる。空に咲いた大輪の花が、ぱらぱらと光の粒を爆ぜながら、花びらを散らしていった。

「ああ、いいところを見逃してしまった」

彼は、眩しそうに目を細めた。

「今日は賑やかだね」

「お祭りの日だもの」

「そうだね、だけど」

二発、三発と続けて花火が上がり、彼の横顔がさまざまに色を変えながら闇の中に浮かび上がった。

「僕には少し、明るすぎる」

昼と夜、彼方と此方、陽と陰。

月が欠け満ちるように、ふたつの世界は、時代と共に有り様を変える。

また線を引き直さないといけないね―――彼は自分に言い聞かせるように、口の中で呟いた。

僕が生きていけるのは、境界線の上だけだから。

「行ってしまうのね、私から見えない場所に」

「それがお互いの為だよ。泣かないで」

「泣いてないわ」

「これは失礼」

彼は顔を隠すように、少し俯いて白い仮面を着けた。

泣いているのは貴方の方。

「祭りは始まったばかりだ。君も皆と楽しんでくるといい」

「貴方は?」

彼は何も言わず、私の額に触れるだけのキスをして、笑った。

またひとつ、空に金色の花が咲いた。

空を見上げ、隣を見る。

そこにもう、彼はいなかった。ただ一言、風の囁きと聞き違えるような別れの科白だけを残して。

「さよなら、Lady Noir」

2010/4/6 period13(2009/8/30)支援でSS板に投下したもの。