ささやかな涼風が、開け放たれた障子から部屋の中に滑り込み、古びた文机の上に無造作に散らばった薄紅色の薬包紙を、畳の上に散らした。
足元まで飛ばされてきたうちの一枚を、指先でぴんと弾く。薄い小さな紙切れは、空でくるりと翻り、布団の端に着地した。
もう一枚、弾く。今度は空に舞い上がらず、畳の上を滑って、脇息に身体を凭れて煙草を吹かしていた侘助の足に当たった。
「……何してんの、アンタ」
溜息と、呆れた視線。
つまらない、と言うと、だったら帰んな、とそっけない言葉が返ってくる。
「道楽でアンタの相手してるんじゃァないんだよ」
そう言いながら、本気で追い出しにかかる訳でもなく、相変わらず愛想の無い顔で、短くなった煙草をつましく吸っている。
とうとう根元まで吸い尽くした煙草を湯呑の中に放り込んだ時、翻った袂の隙間から、白い光が閃くのが見えた。
「何? ……ああ、これ」
侘助が背後から取り出したのは、使い古された盥だった。
覗きこむと、内に水が張ってある。閃いたのは水面に反射した光だったらしい。その水の中を、一匹の赤い魚が泳ぎ回っていた。
「表に出してた盥の中に、誰かが捨ててったんだ」
出店で買ったのを持て余したか、近所の子供の悪戯か。
ともかくそうして捨てられていた金魚を、流して捨てるのも忍びなく、こうして飼っているのだと。
本人は気付いているのかいないのか、この男にはこういうところがあって、こと魚や草木など感情の読めない生き物相手にはやたらと優しく、こまごまと面倒を見てやっている。
己の影と重ねているのかもしれない。声も無く、庭の隅でひっそりと俯いた花を咲かせる椿の名で呼ばれる男。
「一匹だけっていうのも、なんだか寂しいね」
指先で水をかき混ぜて、盥の中に小さな渦潮を作りながら、侘助が呟いた。
金魚は流れに逆らうように尾ひれを懸命に振っているが、努力も空しく、流されながら、侘助の指と一緒に盥の中をくるくる回っている。
寂しいね。
小さな声が、再び、少し開いた唇から、ほろりと零れ落ちた。
寂しいなら、連れを作ってやったら?
思いつくまま、言ってみた。
それを聞いた侘助は、思いもよらなかったという顔でこちらを見て、それから、浮かぶ笑顔を噛み殺して無理に苦い顔を作り、
「そうそう金魚が道っ端に落ちてるとは思えないけどねェ」
買いに行けばいい。
「アタシ、金なんて持ってないよ」
金魚一匹分くらいなら。
「アンタが買うって? 金魚売が通りかかるまで、ここで待ってるつもりかい?」
こっちから出向いていけばいい。
そこまで問答したところで、とうとう侘助が笑い出した。
「嫌だァ、あんまり回りくど過ぎるよ」
お互い様だ。
結局、つまらないと言い出した時から後の予定は決まっていて、なのにどちらからも言い出せず、お互い知らん顔して切欠を探していた、それだけの事なのだ。
遠くで気の早い太鼓が鳴り、ひらひらと微かな笛の音も聞こえた。
今日は、近くの神社の縁日だ。今から向かえば、着くころには日も落ち、夜店の並ぶ道は連れ立って歩く人々で賑わっている事だろう。
侘助が、盥に突っ込んでいた手を引き抜いて、立ち上がった。
「人混みは苦手だよ。目が回って、いつも連れとはぐれちまう」
その科白は、遠まわしなのか、わかりやすいのか。
口には出さずに、目の前に差し出された、水の中で冷えた手を握った。