それは秋にしては寒い朝で、あの人は、大好きな椿を見ることなく逝ったんだと思った。
―――あの、すみません、ここに座ってもよろしいですか?
ああ、ありがとうございます。久々に遠出した所為か、少々くたびれてしまって。
あなたもお墓参りに? ……そうですか。
実は、僕もそうなんですよ。今日は父の命日で。
え、僕ですか?
僕は東京の方で、音楽の教師をしているのですよ。このとおり、盲の僕でも、音楽の才にだけは恵まれていたようで……いやいや、専ら声楽です。とても、楽器の腕だけで食べていけるほどでは。
そうだ、ここで出会ったのも何かの縁、一つ、僕の話を聞いてはくれませんか。
……始めてお会いする方に、こんな不躾な事を言うなんて、頭のおかしい男と思われても仕方がありませんね。
乗合馬車が来るまでの暇つぶしだと思って、どうかお付き合い下さい。
今から十年ほど前になるでしょうか……
まだ子どもの時分、僕には2つの日課がありました。
ひとつは、家のネズミ捕りにかかったネズミを縊り殺すこと。もうひとつは、ある男を監視すること。
母はその男を、僕の父親だと言っていました。お前には、あの役者崩れの男娼の汚い血が流れているんだよ、と。
ええ、そうですね。僕もそんな事、頭から信じてはいませんでした。
ですが、不思議なものです。母親に何度も何度も言い聞かされるうちに、何故だか僕まで父親の事が憎くなってきたのです。
あの男の住まいは知っていました。たった一度、母に負ぶわれて連れて行かれたきりなのに。
目の見えない人間は、時に健常者より鋭敏な感覚を持つと聞いたことがありますが、その所為かもしれませんね。それとも血縁の情が、僕たちを引きあわせたのでしょうか。
ともかく、僕は外出を許可されてからは、毎日のように男の元に通いました。もちろん、顔を見せる事など出来ませんから、長屋の中庭に隠れてこっそりと様子を伺うのです。
なぜ……?
さあ、それは僕にもよくわかりません。何か、母の気を引く事をしたかったのかもしれませんね。
ただ、始めた動機はともかく、途中から、違う目的が出来たのです。
その男には何人かひいきの客がいましたが、その中でただ一人、僕の存在に気が付いた方がいました。その方はあの男に会った後、時々僕の様子を伺い、時には話を聞いてくれました。
その時の僕には、初めて……そして唯一、友人と呼べる相手でした。
僕がその方と話をするようになって……どれほど経っただろう、もう思い出せません。ある日、その方は何時ものように、男の部屋を出て行きました。そして、それっきり、です。
その方が男の部屋にやってくる事は、もう二度とありませんでした。……といっても、6日の間、顔を出さなかっただけなのですが。
ええ、父はそれから一週間後、部屋で独り、死にました。
その後、その方がどうしているかは、僕も知りません。父が死んだ日以来、僕もその長屋の方へ行く事は無かったので。
その方が父の死と関係あるのか……それも、僕にはわかりません。
ただ、何かの切欠にはなったのかもしれない……いけませんね、こんな言い方は。やはり父の寿命だったのだと思います。彼はいくつか病気を抱えていたようです。結核だったとも聞いていますから。
―――ああ、来たようですよ、乗合馬車。
僕は逆の方向へ行くので、あなたとはここでお別れですね。
そうだ、最後にひとつ。
不思議に思っているでしょう?僕が行きずりのあなたに、こんな面白くも無い話を聞かせた事を。
実のところ、あなたは僕のたった一人の友人に、そっくりなのですよ。
それは秋にしては寒い朝で、あの人は、大好きな椿を見ることなく逝ったんだと思った。
だけど僕は、気付いたんだ。
あの男が愛した花の名なんて、僕は知らないって事に。
淋しく咲く侘助の花を愛したのは、僕の方だった。