お囃子の音が一際高くなり、女子供の甲高い笑い声が遠いところからさざめきの様に伝わってくる。
男は窓枠にぐらりともたれ、それを憂鬱な表情で聞いていた。
そんなに嫌なら聞かなければ良いのに、男はそれが責務であるかのように、全身の神経を一層尖らせ、賑やかな祭りの音を拾っているのだった。
「やっぱり、今日も暇そうだね」
軽やかな少年の声。
男は、年老いた獣のようにゆっくりと頭を擡げる。薄暗い路地の真ん中に、目に痛いほど白いワイシャツを着て、片手に杖を携えた少年が立っていた。笑っている、その声にふさわしい、ふわりと軽い笑み。
「……何のようだい、アタシに」
応じた男の声は、確かに若い男のものだが、普通のそれよりもずっとも重くしゃがれていた。花を咲かすことなく枯れてしまった椿の枝をすり抜ける、北風の音のようだった。
「今日はお祭りじゃない、どうしてそんな暗い部屋で一人寝してるの?」
少年の問いに、男は嘲りと諦めの混じった弱弱しい微笑で答えた。男はそれだけで、すべての問題を片付けるのが得意だった。
手をひらひらと振り、追い払うようなしぐさをして、男は部屋の中に戻っていこうとする。男の影が完全に生温い闇に沈む一寸前に、少年の真っ白な足が稲光のように走り、細い腕が、獲物を捕らえる蛇のように素早く伸びて、男の手を掴んだ。
男が驚いた顔で振り向く。少年は男の腕を放すまいと、しっかりと胸に抱え込んでいる。微笑みは消え、二つの黒い目は男の顔をしっかと見据えている……いや、見てはいない。男はそこで、少年の持っている木の杖の意味を理解した。
「ねぇ、僕をエスコオトして」
「……なん、だって?」
聞きなれない少年の言葉に、男がたじろぐ。
少年は焦れた様にその場で2、3度跳びはね、それで調子を取るように、同じ言葉を繰り返した。
男が、少年を睨みつける。少年はただ真っ直ぐに、男に目を向ける。ほんの短い間、二人はそうやって見つめ合っていた。そして、どうやっても自分の腕を開放してくれない様子に、とうとう男の方が根負けした。
「頼むから、アタシに解る言葉で喋ってくれないかい?」
「僕、お祭りに行きたいの。だから」
連れて行け、ということらしい。
その言葉に、男の顔が、すっと険しくなった。
「はっ、ごめんだね、あんな場所」
吐き捨てるように呟く。
少年は知らないが、昔、男は、毎日がお祭り騒ぎのとても賑やかな場所に身を置いていたのだった。煌びやかな所にいた男は、しかし、楽しい事やものとは無縁の生き方をしていた。
そして今、男は汚くいつも暗い路地裏の長屋が、惨めたらしい己に相応しい住処だと思っていた。
少年はそんな、男の心の内など知らない筈なのに、すべて諒解したという顔をして、言った。
「大丈夫、貴方だって楽しめるよ……だって、今日はカルナヴァルなんだもの」
そういって、少年は微笑んだ。その大人びた顔を男はどこかで見たような気がする。しかし、思い出せない。
少年の声は囁くようなのに、狭い路地いっぱいに、芳香のように広がっていく。
「カルナヴァルはね、人も、そうでないものも、一緒になって、歌って踊って、楽しむお祭りなんだ。そして最後には、たった一人の生贄に、乱痴気騒ぎの全ての罪を背負わせて火あぶりにするんだよ」
少年の微笑が、ふうわりふうわりと揺れて、霧のように拡散していく。それを見ているうちに、男は、熱病に罹ったように、頭の芯がゆるゆると溶け出していくのを感じて、額を押さえた。
己の腕に絡みついた少年の指が蔓のようにするすると伸び、懐から滑り込んで、首に、足に、躯に、巻きついて―――
「だって、それじゃ、アンタ……その、生贄は……アタシ、は」
「大丈夫、大丈夫だよ。だってカルナヴァルなんだもの、全て一夜の夢なんだもの」
ゆめ……夢?
はっ、と息を飲んで、男は頭を上げた。
路地は既に漆黒に支配され、遠くにぼんやりと連なる提灯の光が見えるだけだ。楽しげな声は相変わらず、きぃきぃとネズミの鳴き声のように、響いてくるのだった。
窓から身を投げ出したまま、うとうとと眠ってしまったらしい。そんな格好だったから、きっと酷い夢を見てしまったのだろう。首筋に触れると、じっとりと冷たい汗をかいていた。
絡み付く指も、霧のように拡散する微笑も、少年の姿もない。
すべては―――夢。
祭りをやっている広場から、大きな笑い声が聞こえた。空気のざわめきは、まるで山向こうに鳴る花火のようだ。
汗で額に張り付いた髪をかき上げて、あぁ……と喘ぐように息を吐き出した。床に散らばった煙草をひとつ摘み上げ、指先でぐりぐりと弄びながら考える。
汚い部屋でくさくさしているよりは、光に惹かれる夜の蛾のように、ふらふらと惑ってみようか……せめて、こんな気分の晩くらい。
『だって、今日はカルナヴァルだからね』
耳元の囁き声を、男は気の迷いと振り払って、立ち上がろうと勢いよく裾を蹴上げた。