ある砂浜に、そう若くもないけどそこそこ綺麗な女の人が、大きなトランクを椅子代わりにして座っていました。
女の人は、恋人を待っていました。恋人には奥さんと子どもがいますが、二人で遠い国へ行って新しく家庭を作ろうと約束していたのでした。
しかし、約束の時間を過ぎて、太陽が沈み、月が昇り、沈み、また太陽が昇っても、恋人は来ません。
女の人は、それでも、ひざに頬杖をついて、待っていました。
その時、背中のほうから、さくさくと砂を踏む音がしました。
女の人はがっかりしました。だってその音は、恋人のものにしてはあまりにも軽かったのですから。
海鳥がわたしをからかいに来たのかしら?
振り返ってみると、そこには、半分砂に埋まりかけた灰色の塊が、長いひものようなものを振りながらうずうずと動いていたのです。
首をかしげながら長いひもを引っ張って持ち上げると、一緒に灰色の塊が持ち上がり、砂の中から全身を現しました。
それは、小さなねずみでした。
こんにちは で ございます
ねずみは波音にかき消されそうな小さな声で、女の人に丁寧な挨拶をしました。
女の人は、喋るねずみになお首をかしげながらも(まあ、そんな事もあるわよね)と思い直し、姿勢を正して
「こんにちは、ねずみさん」
と、挨拶し、
「ごめんなさいね、尻尾つかんじゃって」
と、謝りました。
ねずみの世界のマナーは知らないけれど、尻尾をつかんで持ち上げるのは、たぶんとても失礼にあたるのではと思ったからです。
しかし、ねずみは大して気にしていないようで、女の人のひざの上に下ろされると、居心地よさそうに丸まって、
ちゅう
と、満足げに鳴きました。
「ねずみさんは、ここに何しに来たの?」
女の人が尋ねると、ねずみはやはりとても小さな声で
うみねこ を み に きた の です
と答えました。
女の人が空を見上げると、雲ひとつない青空を、たくさんの白い鳥が羽を広げ、気持ちよさそうに空を飛んでいます。
ねずみもやはり空を見上げて、鳥を見ていました。
それがし うみ を みて います
ねずみの小さな声に、女の人は、えっ?と言って、膝の上を見ました。
しかし、ねずみは上を向いて、じいっと鳥を見ているのです。
「海は、どこかしら」
女の人の呟きに、小さな声は、歌うように答えます。
あたま の うえ に ひろがる あお
とび まわる しろい なみ
きら きら ひかる さかな の うろこ
「うろこ?」
女の人はうろこを探します。
頭上の青空の海、白い翼は波、うろこは……
「ああ、星……」
女の人が見つけたのは、空の端にぽつんと浮かんだ一番星でした。
空の海は、もうすぐ赤く染まり、小魚の群れのような星がいっぱいにきらめくのでしょう。
女の人は、海に潜るときのくじらのような、深い深いため息をつきました。
「ねずみさん、わたし、もう行かないと」
ねずみを膝の上から砂浜へ下ろし、女の人は言いました。
どこ へ ?
ねずみはぱちぱちと瞬きしながら、聞きました。
「あそこから、わたしは……うみねこになるの」
女の人が指差したのは、高い高い崖の上の、展望台でした。
展望台のてっぺんの辺りには、海鳥たちが、くるりくるり、楽しそうに飛んでいます。
「行かなくちゃ、空が赤くなる前に」
だって青空を飛ぶほうが気持ち良いものね、と、女の人は寂しそうな笑顔で言いました。
ねずみは何か答えたようですが、その時ちょうど大きく波が弾けたので、女の人には聞き取れませんでした。
「さよなら、ねずみさん。お話出来てよかった」
女の人は、トランクを砂浜に残したまま、ねずみに背を向け、歩き出しました。
ねずみはトランクによじ登り、ぐうっと鼻先を伸ばして、女の人の姿を見つめました。女の人の背中はしゃんと伸びて、風の中をすいすいと進んでいきます。
そしてとうとう、女の人の姿が岩の向こうに消えたとき、ねずみは一声
ちゅう
と、鳴いたのでした。