僕は薄暗いビルの、あるドアの前に立っていた。
なんと言うことは無い、ただ知人に訊ねたい事があってやってきただけなのだが、何だかこの煤けたドアを開く事で、後戻りの出来ない問題に首を突っ込んでしまうような……否、首根っこをひっつかまれて引きずり込まれるような気がして、ドアノブに手をかけたまま躊躇っていたのだった。
「……やっぱり……出直してこようかな……」
小さく呟いたその瞬間、気合の一声と共に目の前のドアが勢いよく開かれた。
ドアのすぐ前に立っていた僕はかわす暇も無く額を強かに打ちつけ、よろめいて後ずさった弾みで背後の壁に後頭部もぶつけ、痛みと驚きにくらくらしながら、大きく開け放たれたドアの前で仁王立ちする男の方を見た。
「そんな所に黙って突っ立っているのは泥棒かお前ぐらいだ!古本屋から連絡が来てなければ、警察に突き出してやるところだぞ」
傾いだドアから『薔薇十字探偵社』と書かれた金メッキのプレートが、ガランと音を立てて落ちた。
* * *
「あの……すみませんね、うちの探偵が」
「いいよ……慣れてるし……」
茶菓子を持ってきた探偵の助手は恐縮しきりで、何だかこちらが悪い事をしてしまったような気がして、居心地が悪い。当の探偵は安楽椅子にふんぞり返って、ガキの使いじゃあるまいし、古本屋は過保護が過ぎる―――と悪態をついている。
探偵助手はテーブルに二つのカップを置くと、さっさと流し場に引っ込んでしまった。それと同時に何故か探偵まで黙りこくって、しばし場を静寂が支配する。
「おい」
暫くぼんやりしていたようだ。低い声にはっとして顔を上げると、ふてぶてしい顔をした探偵が人差し指で、こっちに来いと合図を送っている。流し場を指差すと、首を横に振る。僕に来いと言っているらしい。
しぶしぶ立ち上がって傍まで行くと、今度は指を床に向ける。下を向くと、ぱしんと頭を叩かれた。
「……痛い……」
「何でお前だけ来るんだ愚か者」
「僕だけって、何……どうすればいいの……」
「紅茶だ、紅茶!ついでに菓子も」
「僕……一応、客なんだけど……」
「それがなんだ、俺は探偵だ!」
理屈としては滅茶苦茶だが、妙に迫力のある彼の言葉には人を動かす力がある。そんな彼が、僕には少し眩しい。そして、そんなところがあの人の気を引くのかと思うと、ほんの少し心がざわめく。
二人分の紅茶を彼のデスクに運び、ついでに部屋の奥にあったピアノの椅子を引っ張ってきて、彼の隣に座った。甘い香りの紅茶を啜り、一息ついて、ここまで足を運んだ経緯を話しだした。
「ほら、君のところにも来てるでしょ?あの……」
「ああ、あいつか」
彼の言うあいつというのが、僕の友人で――もっとも、僕がそう思い込んでるだけかもしれないが――今、僕が探偵に相談したい事である。
「最近、見ないんだ……」
「それは知ってる」
「相談に行ったけど、取り合ってもらえなくて……」
「それも知ってる……いたからな、その場に」
「今日も行ったら、『いっそ探偵に探してもらったらどうかね』って言われて……ここに……」
「……それは、もしかして物真似か?」
「い、今はそれはどうでも良いんだよ……」
「つまりお前が似てない物真似を織り交ぜつつ俺に頼みたい事というのは、あいつを探して欲しいと、そういうことだな?断る」
こちらに目もくれず、探偵は僕に有無を言わせない調子できっぱりと言い放った。
「そんなもの、探偵の仕事じゃ無い」
「……人探しは立派な探偵の仕事だよ……?」
「お前の言う立派な探偵が誰かは知らんが、そんな奴は俺に言わせれば探偵じゃない、警察の真似事をする一般人だ。神たる探偵は、わざわざ探しに行かずとも尋ね人が自然と目の前に現れる、そういうものだ。わかったな?」
さっぱりわからないしそもそも僕の発言を取り違えているが、仕事を引き受ける気が無いらしい……そう思っていたから、彼が次に告げた、「まぁ、今回は探してやらないことも無い」という言葉には、少なからず驚いた。
「あ、ありがとう……でも、何で……」
「あいつ、最近は俺のところにも顔を出さない。お前はともかく、俺に黙ってあいつが消えるとは思えないからな」
「……僕はともかくってどういう意味さ……」
「お前より愛されている俺様にすら何も告げず消えるとは、下僕の風上にも置けないという意味だ!」
探偵は僕の鼻先に指を突きつけて、堂々と宣言した。『お前より愛されている』のくだりには納得いかないが、ともかく探偵はやる気になったらしい。
いつの間に来たのか、カップを盆に乗せそそくさと退場しようとする探偵助手の進路を足でさえぎり、ニヤリと笑って言った。
「今の話、聞いてたな?」
「そりゃあ聞いてましたよ。探しにいくんでしょ?夕ご飯までにはお帰りですか?」
お出かけの準備は出来てますから、と流し場に戻ろうとする助手を、足で元の場所へ押し戻す。
「誰がいつ探しに行くと言った?」
「たったさっきあなたが探しに行くと言ったじゃないですか」
「俺は『探してやらないことは無い』と言ったんだ」
「………………」
「そして俺が探すとは言ってない」
「………………えぇー…」
「なんだその嫌だと言いたげな顔は!神の為に働くなんて下僕冥利に尽きる幸福だぞ、むしろ喜べ!」
目の前でどんどん話が進んでいくが、つまり探偵本人は動く気がないらしい。 そうこうしているうちに、とうとう探偵は「寝る」とだけ言い残し、奥の部屋に入ってしまった。
事務所には、途方にくれた僕達だけが残された。