道を行く侍に、声をかける者があった。
「ヨゥ、そこなお人、ちょいとお前さんの相棒に、池の上で飛ぶのを止めるよう言っちゃあくれねェか」
「鷹がどう空を行こうと、鷹の勝手だ」
「そりゃァご尤も。しかしそう水面すれすれでひゅいひゅいやられちゃ、おれの晩飯か、下手すりゃ朝飯が逃げちまうのヨ」
ひゅうと侍が口笛を吹く。と、風切羽に、池から立ち昇る蓮の香のする霧を含ませた鷹は、矢のように鋭く上へ飛び上がって、ゆったりと侍の肩に降りた。
蓮池から、のそのそと男が這い登ってきた。
「ところであんた、用心棒はいらんかね。見ろ、この霧。もう暗くなる。夜道は危険だ。野盗が出る。野犬も居る」
「貴様、用心棒を自称して、おれの腰のものも見えないか?」
「あ」
「節穴か?それとも虚気か?両方か?」
「卒爾!おれとしたことがっ!」
用心棒は頭を抱え、地団駄を踏んだ。
「見たところ、貴様は手ぶらか。それともそれを得物に?」
侍は釣り竿に目を遣り薄ら笑う。
「オウ、こりゃア只の釣竿ヨ」
腹を立てるでもなく、呑気な調子で用心棒はぶんぶんと竹竿を降る。
「いい釣竿だが、これでぶん殴ったらこっちがぽきりヨ」
「ああ、だろうとも」
「おれも今日の朝まではあんたのように立派なものをぶら下げとったんだがなア……」
質に流したのヨ……用心棒は恥ずかしそうに行って、ぼりぼりと頭を掻いた。
「虚気か」
「お侍、あんたちょっと失礼な男だな」
「刀もないのに用心棒気取りとは笑い種」
「なに、おれァこう見えて腕っ節には自信があってヨ」
力こぶを作ってみせる牡丹の袖からのぞく腕は、自信を持つには少々足りない太さだと、侍は思った。
「それにヨ、昼のおれにゃァのっぴきならねえ事情があったのヨ。聞くか?」
「ここまで聞けば、聞かざるをえんな」
「おうとも、なら話そう。」
昼飯の頃だった。
みりん干しと目刺、どちらを頼むか決めあぐねて小半時悩んだ挙句、とうとう飯屋の主人に叩き出された用心棒の目に、道端でしくしく泣いている若い女の姿が止まった。
「娘さんよ、そんなに泣いちゃあ可愛い顔が台無しだ。目がまるで李だ。とにかく理由を話しねェ」
若い女が用心棒に話すところ、子供が悪い病気に罹り、治療には高価な南蛮渡来の薬だということらしい。
「亭主も一昨年死んじまって、身寄りのないあたしなんか雇ってくれるところはないし……」
「オウ、そンならおれの知り合いに頼んでやろう。宿屋だがな、女に阿漕な仕事をさせるとこじゃねェ。おれが保証する。それに事情を話せば給金を先払いしてもらえるだろうヨ、気のいい女将さんのことだからな。ま、ちィとばかり人使いは荒いがな。ハッハッハ!」
「あ、あ、ああ、それがあたし、腹に赤ん坊がいて……亭主の忘れ形見だもんだから、大事にしてやりたくて……」
身重では、女ひとり、ようよう仕事も見つからないというのも納得がいく。ただでさえ赤子が生まれるとなれば、なにかにつけ金がかかるというのに。
さめざめと泣く女の、なんと哀れなことか。
「……ということでヨ」
「ふむ。行きずりの女に有り金をはたくとは中々の豪傑……と言いたいところだが」
「オウオウ、そう褒めてくれるな。照れるじゃねェか!」
「亭主は一昨年死んだ、と」
「全くふてえ男だ、若い嫁独り置いてとっとと極楽行っちまうなんてヨ」
「腹の子が亭主の忘れ形見、と」
「泣かせる話じゃねエか。な、お侍」
「知ってるか自称用心棒、赤ん坊はおっかさんの腹に十月十日しか居られんのだよ」
「は」
「ああ、矢っ張り虚気か」
「卒爾!おれとしたことが!牝狐の奸策にまんまとしてやられたッ!」
用心棒は膝をつき、両拳でぼだぼだと地面を打ち、額を打つ。
見苦しい事この上ない男の様相を、侍は緑の目でじっと眺めていたが、不意に優しい顔になって言った。
「お前のような大虚気は、見ていていっそ気持ちがいい。人間同士の胸糞悪い化かし合いを眺めているより、よほど面白い。お前の生き様は、生中の男では真似できまいて」
「お侍……あんた……」
用心棒は顔を上げ、侍の仕立てのいい霞柄の着物の裾で、悔し涙と泥で真っ黒に汚れた顔を拭った。侍はあからさまに嫌な顔をする。
「言ってることはよくわからんが、ともかくあんたが良い奴だということは虚気のおれにもわかったぞ」
「……ああ、だろうとも」
「よし決めた!」
「よせ、言うな。ろくなことじゃない」
「矢っ張りおれはお侍、あんたの用心棒になってやる」
「要らぬ世話だと」
「安心しねェ、お代はいらんヨ」
「そんなことは聞いてない」
「そうと決まれば」
「いつ決まった、何が決まった!」
「固めの杯といこうじゃねェの、兄弟!」
「用心棒じゃなかったのか!?」
とはいえ、風流物の侍のこと。馴染みの店で酌み交わしつつ、とんちきな快傑譚を聞くのも悪くない夜すがらの過ごし方だと思わなくもないのだった。
鷹が空に飛び上がり、気持ちのいい声で一声鳴くと、ねぐらへ向かう烏の一団が慌てふためき、ぶつかり合いながら西の方角へ飛び去っていった。