3年前の夏。
俺は公園の駐車場で、車止めに座って星空を見上げていた。風が冷たい。夏はもうすぐ終わる。
背後のキャデラックでは、遊び仲間4人がどこかで捕まえてきた女をレイプしていた。こんな時、俺はいつも見張り役。人間のメスに興味がなかったから。
咥えていた煙草が中途半端に開いた唇から滑り落ちて、ちりっと音を立ててどこかに転がって行った。あの頃の俺は、いつもぼんやりしていた。
駐車場に、一台のバンが入ってきた。俺の前で停車する。運転席のドアが開いた。
「おい」
降りてきたのは、俺と同い年くらいの女だった。
いい女、だと思う。たぶん。人間の醜美に関して、俺はあまり確かな事は言えないけれど。
目鼻立ちがくっきりしてて、唇がぽったり厚くて、胸と尻が張ってる、外国の雑誌のグラビアページに載ってる写真がそのまま出てきたような感じの女。だからたぶん、美人。
だけど、目つきは野良犬のように険しくて、タンクトップとショートパンツを着た彼女のむき出しになった肩と太腿には、タトゥーの蛇とトカゲが這い回っていた。
「おい!」
もう一度言われて、ようやく俺は、タトゥー女が俺に話しかけているんだと気がついた。
「何?」
「あれ、」
俺の背後を指差す。
キャデラックから悲鳴と笑い声が聞こえた。
「あの車ン中にいる奴ら、お前の知り合いか?」
俺は頷いた。
瞬間、世界が目の前で一回転して、背中と後頭部に強い衝撃。そして、暗転。
女が右腕一本で俺の首を掴みあげ頭から藪の中に突っ込んだとぐるぐる回る脳みそが理解するまで、数秒かかった。そしてその間に、彼女は公園の占拠を完了していた。
藪から這い出した俺が見たのは、半壊したキャデラックと、その周りに転がった仲間たちと、全裸で泣きじゃくる女の子と、その子の肩を抱くタトゥー女。
タトゥー女の唇が、やっちまった、と言った……ように、見えた。
「えーと、まあ、なんだ。
若い女が夜中にひとりでふらふら歩いてんじゃねえぞ。
わかった? オーケイ、じゃあ服着ておうちに帰れ、な。まっすぐ帰れよ」
全裸の少女にそう言って、タトゥー女はポケットから取り出した財布を少女の手に押し付けた。半ば無理やり握らせて、戸惑う少女に背を向け、歩き出す。俺に向かってまっすぐ。え?なんで?
やべぇ、これやべぇ、逃げないと。立ち上がった俺の耳に、タトゥー女の怒鳴り声が突き刺さる。
「動くな!逃げるな!
そこから一歩でも動いたらぶっ殺す!」
走り出しかけた俺の足が、びたっと地面に貼り付いた。
俺の足なら、全速力で駆ければたぶん逃げ切れる。
でも、手負いの狼のようにギラギラ燃える眼の前で、俺の足はまるで生まれたての小鹿のように戦慄いて、まるで使い物にならない。
棒立ちになって震える俺の前で、タトゥー女が立ち止まる。
殴られる。いや、これはもう、たぶん、殺される。
俺はぎゅっと目を閉じた。
「……何やってんだ、お前」
いつまで待っても鉄拳が降ってこない。恐る恐る目を開く。
タトゥー女が、不思議そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「頭、大丈夫か?」
「え、あ、ぅ、うん、だいじょぶ」
がくがく頷く。
「よし。じゃあそれ、頼む」
顎をしゃくる。
振り返る。そこにあるのは、タトゥー女の乗ってきたバン。
「ったく、お前ぶん投げたお陰で右肩がいかれちまった。運転出来そうにねぇ」
顔をしかめて右腕を回している。
つまり彼女は、男4人を左腕一本できれいに片付けてしまった、ってことだ。
ぽかんと口を開けて突っ立ってる俺を見て、タトゥー女は笑った。にやりと。
「お前、前歯一本無くなってんぞ」
それから。
車の中で、俺達はいろんな話をした。
タトゥー女の名前はジジで、喧嘩して部屋を出て行った彼女を探していること。
俺達がさっきまでいた飲み屋はジジのいきつけで、それらしい女の子が男に連れ出されたと常連客から聞いたこと。
「あの子、ジジの彼女なの?」
「いや、それがなぁ……」
ジジは、ばつが悪そうに頭を掻く。
とどのつまり、人違い。
さっき彼女からメールが来て、
「今日はホテルに泊まる、ってさ」
「じゃあ俺ら、勘違いで殴られたってこと? ひっでぇ!」
「テメェは殴ってねぇだろ、邪魔だから投げ飛ばしただけだ」
尚更ひどい。
俺の事も喋った。
「アリオ、女に興味無いの?」
「女ってーか、うん……人間に興味無い」
「へぇ……じゃあ、つまんなかっただろ、あいつらとつるんでても」
つまらなかった。
空っぽの頭蓋骨の中でゴキブリがずっとガサガサ動いているような苛立ちを抱えて、時々訳もなく笑ったり怒ったりするフリをしながら、何もかもが他人事。
痛くても、気持ちよくても、実感がなかった。生きてるって実感が。
「ふぅん。じゃ、あたしとおんなじだ」
だからさ、あたしはずーっとひとりでやってんの、と、ジジは笑って言った。
その時の笑顔は、ちょっとだけ女の子らしく見えた。と、口に出して言ったら、殴られた。
痛かったけど、なんだか嬉しくてにやにやしてたら、気持ち悪いとまた殴られた。
「……なぁ、ジジ」
「うん?」
「俺、今日からジジと一緒にいてもいいかなぁ?」
俺の言葉に、ジジはちょっと鼻を鳴らして、勝手にしろと言った。俺はやっぱり嬉しくてにやにやしたけど、今度は殴られなかった。
* * *
―――あの日よりボロくなったバンに乗って、俺達は今、真夜中の寂れた旧道を走っている。高速に乗る金なんて無い。もちろん。
単調なリズムで頭上を行き過ぎるオレンジ色の明かりが、俺の思考をホイップする。
あくびを噛み殺して、こっそり助手席の様子を窺う。ジジはヘッドレストに頭を預けて、ぼんやり窓の外を見ている。
運転している時もこの調子だったから、休憩に立ち寄ったファミレスの駐車場で、渋るジジを無理やり運転席からひっぺがしたのだった。
(仕事の最中にぼーっとするなんて、らしくない)
なんて、言えない。
頭の悪い俺だって、それくらいは空気が読める。
黙ったまま、俺がジジにできることを考えてみる。答えはすぐに出た。へたなこと考えないで、このまま黙って運転してろ…って答え。
俺って無力だ。それにやっぱり頭が悪い。
「悪ィな」
ジジが小さな声で言った。
案の定、ジジには俺の考えなんてお見通しだ。
「いいって、お互い様だろ、仲間なんだから」
「仲間か……そうだな」
「そうだよ」
「お前はあたしを裏切らない。あたしもお前を裏切らない」
そう言って、ジジは悲しそうに笑う。
「お前がいて良かったよ、アリオ」
「やめろって、そういうの。なんか……」
「なんか?」
「なんか……ジジ、死んじゃいそう」
「なんだそりゃ。勝手に殺すな、阿呆」
ジジは笑って俺の肩を叩いた。
さっきより元気な笑い声に、俺は少しほっとして、調子に乗って話を続ける。
「知ってる? そういうの、死亡フラグって言うんだぜ」
「何それ」
「『俺……この戦争が終わったら結婚するんだ……』みたいなのって、あんじゃん?」
「あーあーあー、そりゃ間違いなく死ぬな! 帰ってこねぇよ!」
ジジはひっひっとカエルみたいな笑い声を立てながら、窓の外を見て、急に笑いをひっこめた。
さっきまでのしょぼくれたジジじゃない。いつもの『仕事』の顔だ。
「何、どしたの」
「アリオ……車、スピード落とすなよ」
「えっ、えっ?」
「あたし達、尾行られてる」