あたしの名前はジジ。
彼女が付けてくれた。ハミって娘。
初めて家に泊めた日、たまたまテレビで流れていたアニメ映画に出てきた黒猫の名前だった。
「目が似てるの。かわいくて」
あたしはそう思わなかったが、聞きなれない形容詞で褒められたのがくすぐったくて、異論を唱える気にはならなかった。
ハミとの生活は、穏やかで、居心地が良かった。
でも、あたしたちの生活には何ひとつ確かなものがなくて、彼女はきっと、それが不安でしょうがなかったんだと思う。
結局彼女は、だだっぴろい海原でふたりぼっちの舟を降りて、地に根差して生きるほうを選んだ。
彼女はいい母親になる。それは間違いない。絶対。
相手の男は知らないが(知ってる男だったらツラに一発くらい入れないとあたしの気が済まない)彼女が選んだ男なら、たぶんいい父親になる。
ハミが幸せになれるなら、あたしはそれでいい。ただ、少しばかり、胸のあたりが切なく痛むだけ。それだけ。
5年。あたしの体に、すぐには捨て去れない何かを染み込ませるには、十分すぎる期間だった。
「なーなー」
車のハンドルにもたれて感傷に浸っていたあたしの意識を、能天気な声が現実に引き戻す。
「んだよ」
「今の子見た?すっげえ可愛いの」
アリオの指さす方向を見る。若い女が脚の長い犬を連れて歩いていた。
どちらを指しているかなんて、改めて聞き返すまでもない。あたしは同意も否定もせず、返事の代わりに鼻を鳴らした。
かく言うこいつも、つい最近、ツレと衝撃的な別れを体験したばかりだ。いや、こいつにとってはよくある話なのだけど。
「公園でヤッてたら保健所の人に見つかってさー、『その犬はあなたのペットですか』って聞かれたから『彼女です』って答えたら、こう」
頭の横で指をくるくる。
「されて、彼女、どっか連れて行かれた」
おとなしくていい子だったのになあ、と遠い目をするアリオ。
お前が収容されなかっただけまだマシだ、どあほうめ。
ダッシュボードのゴミの山で煙草の箱を漁っていると、また。
「なー!」
「今度はなんだよ」
好みの豚でも歩いてたか。
「あれ、客だ」
ハンドルから身を起こし、アリオの視線の先をたどる。アリオも身を乗り出す。
「間違いないか」
「間違いねえ」
後ろの座席から書類ケースを引っ張り出す。ふたを開ける、一番上に依頼人の顔写真。
間違いない。あの男だ。
「あたしが行く。車、いつでも出せるようにしとけ」
アリオが頷き、にかっと笑って、自分の咥えていた煙草を差し出した。
「ごめん、これ最後の一本だった」
「……しゃーねぇなあ…」
歯で噛みつくように受け取って、直したばかりでがたつくドアを蹴破るように開けた。白いコンクリに照り返す真昼の光線が、じりじりと肌を炙る。
もうすぐ本格的な夏が来る。こいつと組んで、4度目の夏。