吸殻の山をぐしゃりと踏み潰す。力をこめて踏みにじる。
1時間前から幾度なく繰り返されたこの動作は、30分前より激しさを増している。
とどのつまり、あたしは頭にきているということだ、2時間という歴史的大遅刻をやらかした我が相棒に。
あたしは待たされるのが嫌いだ。そして、あたし達のかかずらっている仕事のほうもそのようで。
あと一時間ヤツが遅れたら、二人雁首並べて明日から路頭に迷う運命が待ち受けているということを、あの男もよく知っているはずなのだ。
なのに、来ない。
「先に行っちまうか……クソ!」
バンのタイヤを蹴りつける。
わかってる、あたし一人で行ったってどうしようもない。わかってるからこそ、焦れている。
時計を見る。首が飛ぶまであと40分。
一人で出発する事を本気で思案し始めたとき、切羽詰った声が耳に届いた。
「……ジ…ジジ、車!車出せ!」
運転席に滑り込み、エンジンを掛けながらバックミラーを見る。
来た、ようやく来やがった。
相方、アリオだ。茶封筒を胸にしっかりと抱え込み、必死の形相でこっちに向かって突進してくる。そしてその後ろから、毒々しい色の首輪をつけたデカイ犬が3頭。
なるほど、あれが歴史的大遅刻の原因か。
アクセルを思い切り踏み込んでバック。弾みでガムテープで補強していた助手席のドアが吹っ飛んだ。良いさ、いっそ好都合だ。
車1メートル手前でへたり込んだアリオに、手振りで『さっさと乗れ』と合図する。シートに茶封筒が乗っかったのを横目で確認した。よし、発進。
ギアをドライブに入れ、再び急発進。車の下の方から悲鳴が聞こえた。助手席にはアリオの腕がかろうじて引っかかっている。遅刻した罰だ、しばらく引き摺られてろ。
バックミラーを確認。犬の姿はない。車に乗り込むのを見て諦めたか。なるほど、なかなかよく訓練されている。アリオを追っかけてきたのは素人の雇われチンピラじゃないって事だ。
「そろそろいいか」
スピードをぐんと落としてやると、泥まみれになったアリオがずるずるとシートに這い上がってきた。恨みがましい目であたしを見据えながら。
「お、生きてたか」
「かろうじてな!前の晩に雨降ってなかったら、体中ズルズルに皮剥けて死んでるよ!」
「そうか、そりゃ残念だったな。じゃあアリオ、次の待ち合わせはアスファルトの上にしような」
「殺意満々だな!うぅ、遅刻したのは悪かったけどさ、俺のせいじゃないしさ……」
泥がこってりついた前髪を撫で付けながらブツブツ言っているアリオに、ポケットに残った最後の煙草を放ってやった。
それだけで単純なアリオはもうにかっと笑って、鼻歌を歌いながら煙草に火をつけている。
実を言うと、あたしももう怒っちゃいなかった。茶封筒があたしの懐にちゃんと納まって、アリオが無事で、それだけであたしは上機嫌なんだ。
あたしは『運び屋』。
アリオと二人、どんな荷物も時間内にお届け、それがモットー。
* * *
アリオがあんまり煩いので、途中で小さな公園に寄った。
これから何をされるか察したのか、逃げ出そうとするアリオの首根っこをつかみ、水飲み場まで引き摺って行く。
「やだやだやだやだぁ!」
「うっせぇ騒ぐな!大体、テメーが『せめてシャワーくらい浴びさせろ』って言ったんだぜ。
あたしはお前のわがままを聞いて、その上、丁寧にお前の体を洗ってやろうって言ってんじゃねーか。感謝しろ、感謝」
「俺はあったかいシャワーが良いの!冷水はイヤなの!」
「今さらぐだぐだ言うな、いい加減腹決めろよ。女々しい奴だな」
「お前は男らしすぎるよ!」
目に涙まで浮かべている。まったく情けない男だ。
公園の砂地に汚いセンターラインを引きながら、ようやっと水飲み場までたどり着く。アリオはまだ水揚げされた魚よろしくのたうっている。そんなに水が欲しいか、今くれてやる。
埃を被った緑色のホースを引っ張り上げ、口の部分を指で挟む。それをアリオの鼻先に突きつけて、
「目ェつぶれ」
「え、ふブェ……ぅげっハ!いってェ!」
蛇口を全開。
勢いよく飛び出した冷水は、アリオの眉間にヒットした。
「お前は相変わらず大げさだな」
額を抑えて蹲るアリオの背中をつま先で蹴りつけ、うぅん、と背伸びしてホースを横の茂みに放った。あたしも水浴びしたい気分だ。暑い。
ぐるりと公園を見回す、小さくて小汚い、よくある団地の公園だ。
ちらり、と頭を一片の違和感がひらめいた。
何かおかしい。何がおかしい?いたって普通の、静かな公園に、いったい何があるってんだ?
気のせいかもしれない。でも、あたしは今まで、この感覚に何度も救われてきた。
察知しろ、そして反応――そうだ、どうして昼下がりのこの時間帯、人っ子一人いないんだ、静か過ぎる!
「アリオ、逃げるぞ!」
蹲っていたアリオが弾かれたように立ち上がった。
こいつの良いところは、「なんでどうして」をとりあえず横に置いといて、あたしの言葉に従ってくれるところだ。
二人同時に、バンに向かって走り出す。
あたしたちが1秒前に立っていたところへ、黒光りした外車が突っ込んできた。水飲み場が吹っ飛び、カルキ臭い水が噴き上がって、砂地に黒い染みを散らしたのがやけにくっきり見えた。
アリオが車に飛び込んだ時、あたしは公園入り口の車止めを飛び越えたところだった。
「……よし」
キーは挿しっぱなしだから、これでアリオが車を出せば茶封筒は助かる。
……なのに。
「ジジ、早く!」
この大馬鹿野郎は、あろう事か、あたしに向かって手を差し伸べてきたのだ。
「ば……っ」
ケツのあたりに熱い感じ。黒光りの頭がすぐそこに迫っている。
ええい、一か八かだ!
「受け取れッ、このクソ野郎ども!」
ポケットの中から『それ』を引っ張り出し、黒光りの向こうへ高く高く放り投げた。
黒光りが怯んだ。ほんの一瞬のブレーキ……それで十分だ。
あたしは助手席に飛び込んだその瞬間、アリオがアクセルを思いっきり踏み込んだ。ガクンッ、とバンが軋み、あたしの体は硬いシートに押し付けられる。
火の中で栗が弾けたみたいに、バンは公園からすっ飛んだ。
「アリオ、裏だ。路地に入っちまえば奴等、追っかけて来れない」
「わかってる」
このボロ車、頑丈なのと足が速いのだけが取り柄。見た目ばかりごてごてした黒光りに負けはしない。
アリオは前つんのめりの体勢でハンドルにしがみ付いている。アタシはバックミラーを見た。黒光りの速度が徐々に落ち始めている。
「んん……?」
「ジジ、どうした?」
前をにらみつけたまま、アリオが問う。
あたしは黙ったまま、指先で自分のこめかみを叩いた。なんとなく、奴らの狙いがわかった気がする。
「アリオ、路地はダメだ、表通りに出る」
「はぁ!?あんな混んでる路に出たら追っつかれちまうよ!」
「大丈夫だ。あいつ等、あたし達を捕まえたいわけじゃないらしい」
となると、あいつ等はキツネ狩りの猟犬って事になる。あたし達をご主人様のところまで追い立てて、今夜のディナーに仕立てる算段なのかもしれない。
だったら寧ろ、人目についた方が安全だ。
「キツネもただ撃たれる訳にゃいかないんでね」
タバコに火を点けようとポケットを漁り、ついさっきライターを黒光りに投げつけてしまったのを思い出した。
ああいうご立派な車を乗り回す連中は、自分が一番可愛いと相場が決まってる。だから、あんなチンケなハッタリも目くらまし程度にはなる。
まったく、この阿呆のおかげであたしはライターを無くし、代わりに命を拾ってしまった。
「お前は大した大馬鹿野郎だよ」
頭をぐしゃぐしゃ撫でると、アリオは子どもみたいに、にかっと笑った。