まるで彼がそう仕向けたかのように、あっという間に日が暮れた。
「支度は私がやっておくから晶は風呂を貰いなさい。さあさあ愚図愚図するんじゃあないよ、鈍いな晶は」
と、柘榴に半ば強引に風呂場に追い立てられ、どこまで用意がいいのかきちんとお湯も沸かしてあるようで、柘榴の言葉に従って、少し早めに風呂を頂くことにする。
湯船の中に入る前、やわやわと揺れ動く湯気に覆われた湯に手を差し入れて、ぐるりとひとつかき混ぜる。子供の頃からの習慣だ。いつか親戚の家へ泊まりに行った時、従兄弟に「また妖怪でも見えたのか」とからかわれたのを思い出した。
また。
僕は昔から、そういうもの―――つまり、柘榴の側に属するような、人ならざる者が見えていたのだろうか。言葉を交わしたりしたのだろうか。記憶の糸を手繰っても、その先に絡まっているのは空想と現実が混ざり合った褪色の思い出。古風な着物の友達、首だけの女の子、丸い背中で遠ざかるたくさんの人影。僕は夢見がちな子供だったから……
温くなってきた湯に身を委ね、とりとめの無い事を考えているうちに、僕はまた、泥のような眠りの中に落ちていた。
僕は生温い水の中にいた。
風呂湯とは違う、日に当たって温くなった、ぬるぬると淀んだ水。
木漏れ日だろうか、いくつもの光の柱が仄暗い水に突き刺さり、その間を魚や蟹が悠々と泳ぎ、歩き回っている。
僕はその中に棒切れのようにつき立って、くるぶしまで泥に埋まった足を動かそうと躍起になるが、体のどこにも力が入らず、足の指一本すら動かせない。
泥の中から大きなあぶくがわき上がり、僕の目の前でぱちんと弾け―――
「晶!」
はっとした。
あぶくが弾けたと思ったのは、柘榴が僕の顔の前で指を鳴らした音だった。
湯に半分沈みかけた身体を慌てて引き上げる僕を睨むような目で見下ろして、柘榴は不機嫌そうに舌を鳴らす。
「晶は一人で湯も使えないのかい」
「ごめん、でもまた変な夢を……」
「あぁあぁ」
柘榴は煩そうに手を振って、僕の話を制する。
「逆上せる前に上がって寝なさい。それとも着替えに手伝いが必要か?」
皮肉っぽく目を細める。僕が首を振ると、まったく晶はそこらの子供よりよほど手がかかる、と言い置いて、風呂場の戸をぴしゃんと締めて出て行った。扉の向こうで、柘榴が何事か小さく呟いたような気がした。
風呂の湯は、とっくに冷め切っていた。
「それでこの、僕の布団の上に吊ってあるのはなんだい、柘榴」
「布団の上に吊ってあるんだもの、蚊帳に決まっているだろう」
だとしても、これは蚊帳ではない、と僕は思う。
少なくとも、蚊を寄せ付けないという効果は期待できない。こんなに目の粗い網では、カブトムシだって余裕で出入りできそうだ。
「馬鹿だなぁ晶は。カブトムシは蜜のあるところに寄ってくるんだよ。晶の涎が蜜のように甘いなら別かもしれないけれど」
「物の喩えだよ。 ……気味の悪いことを言わないでくれ」
今度は口の中にカブトムシが押し寄せる悪夢に魘されそうだ。
網がよれないよう慎重に端をつまみ上げ、蚊帳……と彼が主張する物の中に滑り込む。白い網の内側から見ると、まるで僕自身が虫取り網に捕らえられたカブトムシの気分だ。
「晶じゃせいぜいナナフシってところだね」
口幅ったい彼は、僕の反論を許さず素早く明かりを落とし、おやすみ、と低く囁いて、部屋を出た。
枕に顔を埋めると、ほのかに甘い香りがする。熟して地に落ちた果物のような、酸味を含んだ甘ったるい芳香が、僕の意識をずるずると眠りの淵に引きずり込む。
足元にひたひたと水の気配を感じる。魚の内臓の臭い。部屋の中を、水の夢が少しずつ侵食していく。
ああ、駄目だ、また夢の中に堕ちてしまう。誰かの冷たい湿った手が、僕の首に触れた――――
瞬間、凄まじい悲鳴が、僕の意識を急速に現実へ引き戻した。僕の声ではない。もちろん、柘榴の声でも無い。
反射的に起き上がった僕の顔に、天井に吊ってあったはずの白い蚊帳がふわりと掛かる。次いで、ぶちぶちと紐の切れる音がして、白い蚊帳に包まった何かがぼたりと降ってきた。それは僕の腹の上で大きく跳ねた。生きてる!
「やあ、大物が掛かったじゃないか」
いつの間にか僕の背後に立っていた柘榴がけらけら笑う。腹の上でもがき暴れるそれから丁寧に網を外していくと、果たしてそこには、頭から尾までが僕の半身ほどもある巨大な川魚が息も絶え絶えといった様子で横たわっていた。
「鯉はどうやって喰うのが旨いのかな」
「そ、そんな事より、水をやった方がいいんじゃないかな、これ、ねぇ」
慌てる僕を尻目に、柘榴は空惚けた調子で顎を撫でる。
「さぁて、しばらく苦しませてから首を落とすと肉が上手くなると聞いたような気がするし。鯉こくというのを一度食べてみたかったんだ。晶は作れる?」
「柘榴!」
「くっく、そんな顔をするな、冗談だ。それにそんなに苦しいのなら自分で何とかするさ。さあ、出来るんだろう?」
柘榴が言い終わるのと同時に、腹の上の重みがふっと消え、魚は無数の水滴に変わり、部屋の隅へ流れ、そこで膝を抱えたひとの形に変わった。
見窄らしい麻の着物と引き摺るほど長い髪の毛は濡れそぼり、表情は髪に隠れて窺い知ることは出来ないが、怯えているのか細い手足をぶるぶる震わせ、体育座りの格好のまま部屋の隅から動こうとしない。
僕は後ろに立つ柘榴を振り返る。
「柘榴、まさかこの……彼は、僕が子供の頃に逃がした鯉……」
「だったら、ありがちな美談で済んだのだけどねぇ」
柘榴は部屋の隅の彼の前に立ち塞がり、長い髪を鷲掴みにして、無理やり彼を立ち上がらせる。
「そんなお安い三文噺は、晶には通用してもこの私には通じないよ」
「柘榴、やめて」
「晶を馬鹿にするのを?」
僕に話しかけながら、柘榴の目は彼を見据えたままだ。きっと、凍るような眼差しで。
「……それもだし、彼に乱暴をするのもだよ」
「ふん」
柘榴が髪から手を離す。
彼は壁にもたれるようにして、ずりずりとその場に座り込み、今度は頭を抱えて蹲るような格好になった。
「ほら、怯えてるじゃないか」
「この期に及んでまだそんな事を言っているのか?重症だね。呆れ果てるよ。ああまったく、まだ自覚が無いとしたら手の施しようの無い虚け者だ」
「何が?何に?」
「ああ、これだもの!」
もうお手上げだ、といった調子で天を仰ぎ首を振る柘榴を、布団の上の僕は呆然と眺めていることしか出来ない。
「柘榴、頼むから頭の悪い僕にもわかるように話してくれ」
「おや、己の愚かさは理解できたのかい、一つ成長したね」
「……柘榴」
柘榴はちちっと舌を鳴らし、今度は僕を冷たい火の灯った眼で睨む。
「晶は隙だらけだから、こんな小物にすら簡単に魅入られてしまう」
魅入られた?僕が?どこで、どうして?
「そんな事はね、晶、私の知った事では無いんだよ。大方どこか埋め立てられる予定の池か沼の前で、可哀想にと情でも掛けるような戯言を呟いたんじゃないか?」
どうだっただろう。憶えていない。
「ふん、数日前の事を思い返すのすら覚束ないお前がよくも子供の時分の何でもない思い出をさらさらと並べたものだよ」
たまたま憶えていたって事だってあるじゃないか。
「だとしても、下手の横好きのあいつがでかい鯉など釣れるものか」
「君が彼を疑う根拠って、結局それだけなのかい?」
「それで十分じゃないか」
「全然十分じゃないよ」
「問題はそこじゃないんだ、晶。私が一番不可解で、この生臭を締め上げる理由は、どうして晶は自分を苦しめた相手にそうまで優しく出来るのかっていう事さ。お前はいつだってそうだから私は―――」
「心配?」
何気なく言った言葉に、柘榴は眼を剥き、くっと喉を詰まらせた。が、すぐに僕の視線に気づき、誤魔化すように態とらしい咳払いをひとつして、そっぽを向いた。
僕はこみ上げる可笑しさを必死で飲み下し、柘榴の背中に語りかける。
「柘榴が僕を心配してあれこれと気を回してくれるのはすごく嬉しいよ。今日の事も」
「私は別に、そんなつもりはない」
「そうだとしても、僕は柘榴に助けてもらってる。いつもね。でも」
「晶……」
「君の言う事も尤もだけど、それでも僕は信じるよ。彼が、僕に恩返しに来てくれた鯉だって。そうだよね?」
俯いていた彼は顔を上げ、黙ったままこくんと肯いた。柘榴が彼を睨む。
「信用できるものか」
「僕は信じる」
「恩返しというより、仇を返したように見えるがね。酷い夢を見せて」
「それは……暑がりな僕に涼んで欲しかった……とか」
「よくもそうまで好意的な解釈が出来るものだな!」
「君の推論だって随分偏った悪意で出来上がっていたじゃないか。元はといえば、僕が大げさに騒いだのが悪かったんだ。君へのお詫びは僕がするべきだ。ごめん」
「謝られたって困るよ……晶がそういう態度じゃあ、まるで私が」
振り返った柘榴の顔は、柔らかく笑っていた。
「……駄々をこねる子供みたいに見える」
「そんな事ないよ、ねぇ翠」
「晶……お前、まさか、おかしな事を考えていないだろうね?」
柘榴の笑顔がすぅと引く。
「いいじゃないか、家族が一人増えたって」
「こんなにでかい魚、風呂桶で飼うつもりかい!」
「庭に池を」
「あれは私の庭だ!」
「僕の庭でもあるよ!」
「お前はただの庭番だろう!」
「あんなに広いんだから隅っこを借りたっていいじゃないか!」
「だったら私に借賃を払えよ、ええ、生臭!」
「柘榴!」
……結局、柘榴を説得するのに一晩ととっときの日本酒一升を費やし、翠には池の見積りが上がってくるまで盥で我慢してもらうことにした。
柘榴は、十分肥えたら洗いにして喰ってやるから、などとちくちく言いながら、池に植える水草はあれがいいこれは駄目だとカタログをめくり、案外楽しみにしているようだ。僕に気を遣っているのかもしれないけれど。
「晶、私は料理を作る方には疎いけれど、一人前余分に作るだけで時間は倍も掛かるものなのかい?」
背後から白い手が伸び、皿の上の揚げたての天麩羅をつまみ、ひょいと引っ込む。
「そう思うならつまみ食いしてないで手伝ってよ」
「遠慮する。そうそう、前から気になっていたんだが」
「ん?」
「晶は私や生臭をどういうものだと思って接しているんだい」
「そうだな、ちょっと風変わりな友達だと思ってる、かな」
「友達、ね……こういう場合、若い男の元へ恩返しに嫁にきた魚の娘御、という筋立てだって有りじゃないか?」
僕の肩の上に顎を乗せ、柘榴がニヤニヤ笑う。
「そうかもね。でもやっぱり、友達の方が気楽でいいな、僕は。それに女の人だと思うと気を遣うよ」
「そういうものかい」
「そういうものだよ」
「ふぅん」
柘榴は僕から体を離し、たもとで僕の尻をたんと叩き、ニヤニヤ笑いのままちちちっと舌を鳴らした。
「私らが人間の道理に沿ったもので無いのは重々承知だが、それでもこの家で一番風変わりなのは、たぶん人間の晶だね」
その意見には、概ね僕も同意である。