僕は眠っている。
寝付くまではあんなに暑かったのが嘘のように、夜半過ぎから冷え込んできて、蚊帳の隙間からひやひやとした風が流れ込んでくる。
寒い。
上掛けを引っ張り上げようとして、僕は、体が動かないことに気付く。
金縛り……?
突然、体が布団をすり抜けて下に落ちる感じがして、僕は空に放り出される。
冷たい!
僕はいつの間にか、どこか深い水の中にいて、空気を求めて上へ向かおうと必死で手足を動かす。
が、なぜか体は、見えない手に捕まったように、下へ下へと沈んでいく。
口の中に、ぬるぬると生臭い水が流れ込む。苦しい。
誰か、誰か……助けて……柘榴!
はっとして、飛び起きる。
蚊帳を通して、夏の日差しの破片が、蒲団の上に散らばっていた。
「酷い夢を見たんだ」
僕の言葉に、食卓の向こうで西京焼きをつついていた柘榴は、ちろりと視線を閃かしただけだった。
それでも僕が柘榴の方を、哀願の意を込めた(つもりの)目で見つめていると、呆れたように舌打ちをし、
「……晶の見た夢にまで係っていられないよ」
と、一言で切り捨てて、沢庵を一欠けら、口の中に放り込んだ。
「君、案外冷たいんだな」
僕が拗ねて見せても素知らぬ素振りで、急須の乗った盆に指を掛ける。
手元に引き寄せようとするところを、盆の逆の端を掴んで止めると、柘榴は不機嫌そうな顔をして盆に引っ掛けていた指を離した。
「私が茶を飲むのを邪魔すれば、お前の命令を聞くと思っているのかい?」
「命令なんてしてないし、そんなこと思ってないよ。新しいお茶っ葉に換えてくる。買ったばかりの玉露を開けるよ」
「結構、私は安い番茶が好みでね」
「そうそう、君が飲みたがっていた『蔵の華』を冷蔵庫で冷やしてあったんだ」
「……まったく」
柘榴は根負けした様子で、お前の頑固さにはお手上げだよ、と右手をひらひら振って見せた。
「晶は厄介事が好きだなぁ」
「『厄介事が』僕を好きなんだよ」
「やれやれ、ああ言えばこういう男だ」
それは僕の科白だ。
ともかく、彼はとりあえず僕の話を聞いてくれる気になったようで、西京焼きに箸を戻して、僕に手ぶりでさっさと話せと合図する。
「夢を見たんだ」
「それはさっきも聞いたよ」
「……あのさ、」
「判ったよ、つまらない茶々は入れない。私が悪かった。で?」
「溺れる夢なんだ」
「ふむ」
「毎晩同じ夢を見るんだよ」
「なるほどねえ」
なんとも気の無い返事ばかりで、僕は多少じれったく思いながら、昨晩も見た夢の話を柘榴に話す。
一通り話終わった頃、食卓の器は、ご丁寧に僕の分まで綺麗に空になっていた。
まだ食べ足りないというように、柘榴は箸の先を噛みながら、僕に質問を向ける。
「一応聞いておくが、晶、小さい頃に池や川で溺れたことは?」
「ない……と思う。物心つく前に溺れたって話は聞かないし、物心がついてからはろくに泳ぎにも行ってない」
「確かに、晶は野山を駆け廻って沼川で泳ぐ子供には見えないものな」
「……つまらない茶々は入れない約束じゃないか」
「くくくっ、ごめんごめん。じゃあ、心当たりは無いんだね?」
「う、うん……少なくとも、今は思いつかないな」
「何だい、心許無い返事だな」
「忘れてるってこともあるだろ」
「大いに有り得るね、特に晶の場合」
反論できない。
柘榴はしばらく、銜えた箸をぱたぱた上下に振りながら何か考え込んでいる様子だったが、不意に僕の目を見て、
「晶は釣りが好きだっけね?」
と訊いてきた。
「釣り? 別に好きでも嫌いでもないけど、行ったこと無いよ」
「そう?」
「あ、でも、昔はお祖父ちゃんと近所の川に行ったかな」
「ああ、あいつは釣りが好きだった」
「僕は見てるだけだったけどね。そういえば、一度、鯉の入ったバケツをひっくり返した事があった」
「へぇ?」
「大きな鯉が小さなバケツに入っているのが、なんだかすごく可哀想に見えて……」
「ふぅん、晶らしいな」
「怒られると思ったけど何も言われなくて、帰り道にかき氷を買ってもらえたんだ」
「ふむ……」
柘榴はそれきり黙り込み、縁側の外に目を向けて、再び考え事を始めた風情だった。
『食べ物が絡む話はよく覚えてるんだな』なんてからかわれるんじゃないかと思っていた僕は、少々肩透かしを食らった気分で、所在なく手元の食器をまとめていると、柘榴がちちちと舌を鳴らして僕の気を引く。
見ると、柘榴はまだ縁側の方に顔を向けたまま、いたずらっぽく笑った目で僕を見た。
「晶、判った気がするよ。お前を悩ます夢の元凶が」
「え?」
「まあとにかく、夜を待とうじゃないか。昼間から寝るなんて不健康だ。夢魔も明るい場所じゃ仕掛け辛いだろうしねぇ」
「やっぱり何か……その、"君みたいなの"の仕業なのかい?」
「さあ、どうかな。ところで、」
お前はいつお茶っ葉を取り換えてきてくれるのかな。柘榴はそう言って、唇の端を小さく上げた。