「じゃあ俺は三浦さんとこにメシ持ってくから。
先食ってろ、な」
「はあい」
久保さんは一人分のおでんが入ったお鍋を抱え、つっかけであわただしく部屋を出る。
テーブルに置かれた夕食に目を移す。カセットコンロの大なべは、もちろんおでん。
昴の前にはもう一人前がよそってある。自分でよそうには、まだちょっと腕の長さが足りない。
フォークにうずらの卵を突き刺した時、開けっ放しのドアから久保さんの大声が響いてきた。
「『いただきます』は!?」
あ、忘れてた。
「いただきます!」
ひとり夕食を食べていると、庭先から優しい声がした。
「もう晩ご飯かい?」
「あ、うたださん!こんばんは!」
「こんばんは」
宇多田さんはにこっと笑って、空を指差した。
昴も宇多田さんの指先を追う。長い飛行機雲が夕焼けに赤々と残っていた。
「明日はきっと晴れだ」
昴は目を見開く。
「なんでわかるの?」
「空を見れば、何でもわかるんだよ。僕はその道のプロだからね」
宇多田さんは胸を張った。
「その道のプロ」というのはよくわからないけど、宇多田さんはすごい。口をもごもごさせながら昴がそう言うと、宇多田さんは照れくさそうに笑って首を振った。
その時、二人の頭上に怒号が降ってきた。
「いらねぇつってんだろがこのおせっかい!」
「そう言って昨日もなんも食ってねぇんだろうが偏屈野郎!
いいから食え!俺のうどんを食え!俺の目の前で食え!」
二階の三浦さんと、久保さんが喧嘩している。もう昴は怖くなくなった。毎日こうだからだ。
「僕のところにも持ってくるかな」
宇多田さんが首を竦める。
「あんまり食べたくないんだ。体が重くなるから」
でも部屋にいないと、また怒られちゃうね―――そういって部屋に引き上げる宇多田さんはなんとなく嬉しそうに、昴には見えた。
おでんの皿を覗き込む。宇多田さんと話しながらあらかた食べ終えてしまって、皿の中にはごぼうしか残っていない。
「これ、すきくない……」
と言ったところで、久保さんには通用しない。久保さんはご飯を無駄にするのが一番嫌いなのだ。
どこかに誰か……きょろきょろしていると、窓の外を、仕事帰りの圭太と遠藤さんが通っていくのが見えた。
「けーた、せんせい、おかえり!」
昴はおでんの皿を持って縁側から外に出た。
裸足で駆けてくる昴を見て二人はちょっとびっくりしたようだった。
「ただいま……で、そのお皿は何かな」
遠藤さんが昴を抱き上げてくれた。シャツの襟からは病院の匂いがした。
圭太が昴の皿を覗き込んで、にやりと笑う。
「なるほどー、食いたくないおかずを俺たちに食ってほしいってことだな?」
「え、どうしてわかるの?」
大人はなんでも知っているらしい。昴も早くそんな大人になりたい。
「昴くん、野菜もきちんと食べないと……」
「まあまあ、いいじゃん。
たまたま通りかかったのも何かの縁ってことで」
圭太がごぼうをつまみ上げ口の中に放り込んだ瞬間。
「フリーズ!」
ぎくりと動きを止め、圭太がぎこちなく振り返る。
久保さんが水鉄砲を構え、不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「お前はまーた自分の好かんものを人に食わそうとして……
共犯者ともども水浸しにしてくれようっ!」
「わ、ちょ、つべたっ!」
「おい俺は関係ないだろう!」
「黙認した時点でお前も共犯じゃ!」
「きゃあああー!」
5歳児と大人3人が大騒ぎしているアパート10m手前で。
「ああもう、絶対今帰りたくない……」
理仁がひとり項垂れているのに、誰も気がつかなかった。