この街は、世界より夜の訪れが少しだけ遅い、そんな錯覚。
ビルの上から見る街は、光の絹糸で出来た巨大な繭に包まれているようだ。人間の作りだす光が星の無い夜空を押し上げて、時間の侵入を拒み続ける。
もし街が、一つの巨きな蛹だったら、中から出てくるのは何だろう?
ひとりビルの縁に腰かけて、そんな、とりとめのないことを考えていた。
その時、背後で、
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背後で風が唸った。
体を捻り、振り下ろされたクラブを紙一重でかわす。
相手の動きは把握できる。だが、認識に肉体が追い付かない。
「それがお前の限界か?」
懐に踏み込まれる。
振り上げたクラブに光が反射するのがはっきりと見えた。足はまだ動かない。
「所詮虫けらか」
声と同時に鋭い風が、
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風がビルの下から巻き上がり、髪をかき混ぜて、空へ吹きぬけた。
「……すごい風。大丈夫だった?」
友達が頷くのを見て、安心して視線を街へ戻す。
交差点を行き交う人々は相変わらず忙しそうで、下を向いて黙々と歩いていたり、携帯電話で誰かと話をしていたり、店先のディスプレイを見ていたりする。
「今日も平和だね」
友達の方を見た。頷き返してくれたのが嬉しい。
こういう感情を、
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「こういう感情を、なんて呼んだらいいのかな」
足元で力無く四肢を投げ出した犬を抱き上げる。
「怒り。悲しみ。どうしようもない無力感。苦痛。
どれにも似てるけど、どれとも違う。吐き出せないものが、喉の奥で詰まってる感じ」
まだ温かい犬の亡骸を、道の脇にそっと下ろす。
大きく裂けた首が外から見えないように、少し頭を傾げてやった。
「教えてやろうか」
道の向こう、逃げ場を塞ぐようにクラブを肩に担いで立つ八代が言った。
「『憎悪』だよ」
「……憎悪」
噛みしめるように、口の中で少年の言葉を反復する。
八代が苛立ったように担いでいたクラブを振り下ろした。火花がアスファルトの上を跳ねる。
「舞台は設えた。お前の為に戦う理由も作った。他に何がいる?何が欲しい?
なんだって用意してやるよ。お前と戦れるなら」
憎悪。そうだろうか。
この想いは、それよりもっと、生温くて哀しい。
深く考える間は無かった。ポケットから取り出した碧い翅の虫を飲み込む。
『武器』になるまで数十秒。時間を稼がなければ。
この翅でどこまで、
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「どこまで遠くまで行けるのか、一度試してみたいな。
……どこまで上に行けるのかは、一回だけやってみた。
空気が薄くなったところで、俺、気絶しちゃって。
気がついたらだいぶ下に落ちてた。それからは、やってない。
遠くまで行くのは、もっと危ないと思うんだ。帰って来られる保証がない。
君に会えなくなるのは嫌なんだ」
隣を見る。友達は何も言わず、空を見ていた。
二人並ぶ間をすり抜けた風が、
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風が、右脇腹に突き刺さるのを感じた。
柔らかな肉に鉄の棒が食い込む。薙ぎ飛ばされる前に、体に押し付けるように右肘でクラブを押さえた。
勢いのまま、八代の体を軸にして、半円の軌跡を描く。
追いつけないなら喰らいつかせてしまえば。
「これでもう、躱せない」
左腕で抱擁するように体を合わせる。
鰐の顎のような形状の鎌が、八代の背後で
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背後で、金属が触れ合う小さな音がして、こちらに近づく人の気配があった。
振り返ると、見覚えのある影。
微笑んで、声を掛ける。
「やあ。
……また、会えたね」