敵意をむき出しにした業火が、10メートル四方の空間を占領していた。
浄化の天使は主が意識を失くしてもなお、激しく双翼を打ち伏せる。広がる赤がが、全てを燃やし、溶かす。
四ツ谷は、酸素が回らず朦朧とした意識の中で、敵の姿を探るため首を持ち上げようとした。
体が思うように動かない。這いつくばったまま目を動かすと、床に転がった細長い消し炭が見える。
違う、あれは―――見覚えのある―――あれは、僕の脚だ。
「あぁ……ぁ、ぁ…!」
絶叫したつもりだった。
が、熱い空気に爛れた咽喉からは切れ切れの悲鳴が漏れただけだった。
炎の帯がうねり、ひときわ強い熱風が吹く。四ツ谷の小さな体はあっけなく吹き飛び、壁際に仰向けに落ちた。
「と…わ」
半身の名を呼ぶ。返事はない。
炎に炙られ乾ききった体から、黒っぽい色の涙が溢れた。
「とわぁ…ね、ぇ……とわぁぁあぁぁぁ…ッ!」
母猫に置き去りにされた仔猫のような、細く引き攣れる悲鳴を、低い囁きが遮った。
「十和は来ないよ。もう誰も来ない。誰も君を助けには来ない」
熱風の勢いが僅かに弱まった。四ツ谷は、声のした方へ首を捻る。
炎の中に、ひとつの影が立っていた。
人のフレームの上に、昆虫のパーツをバラバラに切り取って重ねた姿。
ゆっくりと、棘の生えた右腕が持ち上がった。
「何度も許そうとした。何度も何度も……でも、やっぱり俺は、俺の正義に背けない」
影は揺れながら、四ツ谷へ歩み寄る。
一歩踏み出すたびに、斑に穴の開いた羽から黒い破片が散り、熱風に掬われて空中に舞い上がった。
「君のしていた事を、見ないふりはできなかった」
「僕…の、した、事?」
三木の、人のかたちのままの手が四ツ谷の首を掴んだ。
壁に押し付けられるようにして、四谷の体が持ち上がる。同じ目線まできてやっと、四ツ谷は三木の表情を知ることができた。
「な、何言ってんのか、わかんないよ……」
「そうだな。君は気付こうともしなかった」
悲しい声と裏腹に、顔には冷たく澄んだ無表情を貼り付けて、三木は四ツ谷の涙に濡れた瞳を見つめる。
そこにも表情はない。硬い瞳は、獲物を狙う獣の目に似ていた。見慣れた視線が、見知らぬ人間ではなく、自分に向けられている。
被食者の恐怖が、三木の指より強く、四ツ谷の咽喉を締め付けた。
「知らないことは罪じゃない。
でも、知らないまま、そこから目を逸らし続けることは、ひどい罪悪だと思ってるんだ……俺は」
三木の瞳に間近に迫った炎が写り込み、感情めいて揺らめく。
「君が君の『家族』をどれだけ傷つけたか知ってる?
彼らは君のために意に沿わない殺戮を重ねて、君のために死んでいった」
「だ、だって……そんなの、当たり前じゃん、だって……」
「だって?」
「だって、あの子たちは僕のものなんだから!僕の命令に従って当たり前なんだ!僕のものなんだから!」
噛みつくような絶叫を、静かな声が切り捨てた。
「君の『家族』は、君を捨てて逃げたよ」
三木の右腕が、四ツ谷の柔らかい腹を貫いた。
四ツ谷は声もなく、ただ眦が裂けるばかりに目を見開いた。
薄く開かれた唇は、震えながら、『うそだ』と言ったように、三木には見えた。
「これ以上、君と話をしたくない……君の心を傷つけたくないから」
右腕をまっすぐに伸ばし、肘の関節に左手を添える。
外に捻るように左手を回すと、ぶつん、と筋の切れる音とともに、右腕の肘から下が四ツ谷の腹と背後の壁に突き刺さったまま三木の体から切り離された。
「何……それ。人殺しのくせに、傷つけたくないなんて……矛盾してる」
宙づりにされたマリオネットのように、片方残った足を揺らして、四ツ谷は嗤った。
「言っとくけど、僕、これくらいじゃ死なないよ。傷口、すぐ塞がっちゃうもん」
「うん……これからもっと、苦しむ事になる。ごめん、殺しきれなくて」
三木は四ツ谷の顔を見た。四ツ谷は笑顔の形に歪んだ顔で、泣いていた。
「僕が間違ってるなら、あんたも間違ってる。僕が罪人なら、あんただって同罪だ」
「そうだね……俺もいつか、誰かに裁かれるのかもしれない」
俯いたまま動かなくなった四ツ谷に背を向ける。
炎に包まれて眠る一ノ瀬の汚れ一つない横顔が、煤けた部屋の中で一層白く輝いていた。
「だからそれまでは……俺の信じる道を進むよ」