何の前兆も見せず、あたかも薄闇に上等なスーツを着せつけたように、零は現れた。
室内は彼がそこへやってくる前と変わらず湿気を帯びた静寂に包まれ、霧のように細かな埃がゆらゆらと空中を漂っていた。
足を踏み出すと、革靴の下から巻き上がった埃が小さな旋風を描きながら、瞬く間に空気に溶けていく。
その部屋に置かれた日用品はどれも、薄雪を被ったように埃の覆いが掛けられていた。床に落ちた本を一冊手に取り、指先で表紙を弾いて埃を軽く払う。殆ど読まれた形跡もない。
熱を失った、感情の残骸達。この部屋の主はもう二度と、それらを顧みる事は無いのだろう。
すべてが死に絶えてしまったようなこの部屋の中で、唯一「それ」だけが、ひどく生々しい。
本を元あった場所へ戻し、降り積もった時間にくっきりと足跡を残しながら、彼は部屋の中央へ歩み出る。
そして、細く尖った顎をくっと引き上げて、「それ」と、真正面から対峙した。
壁一面に描かれた、赤黒く渦巻く闇。
かさかさに乾いた壁紙から湧き上がったそれは、落書きと呼ぶには細緻に描き込まれ、アートと呼ぶにはあまりにも禍々しい。
皮手袋を嵌めた指先が、渦の流れに沿って表面を撫ぜていく。僅かな凹凸を感じる。なぞった後に黒く乾いた粉末が散って、顔料とは異なるくすんだ匂いがした。
黒い渦は、直接壁に焼き付けられて描かれていた。融けた壁材がそのまま蕩ける暗黒に変わり、風化した煤が乾いた絶望を匂わせる。
「心の闇の体現ですか。傑作ですね」
独り言のようにそう言って、おもむろに背後を振り返る。
部屋の隅に据えつけられたベッドの上、固まって束になった髪の隙間から、ふたつの目が零をじっと見つめていた。
「はじめまして、一ノ瀬さん」
「……消えろ」
言葉と同時にオレンジの光が翻り、零の頬を翳めるように熱波が吹き抜けた。
零は少し驚いたように瞳を見開いて、肩口を軽く払い、困ったように微笑んだ。
「随分なご挨拶ですね。安心してください、私が貴方によって傷つけられる事はありません」
「帰れ!もう僕を放っておいてくれ…っ!」
「貴方が心から望むのならそれもまた吝かではありませんが、私の見立てによると、どうやらその言葉は本意ではないように思えたので」
「な…に?」
もってまわった言い方に、一ノ瀬は訝しげな視線を向ける。
「……あんた、誰?父さんが呼んだカウンセラーじゃないのか?」
「いいえ。私は貴方の望みを叶える為、ここに来ました」
「望み……?」
視線が鋭さを増し、再びオレンジ色の風が零に襲い掛かった。零は数歩のステップでそれを躱し、再び部屋の中心に降り立つ。
一ノ瀬が擦れた声で呻った。
「お前に何が僕の何が解る?僕が本当に望むものは何だって言うんだ?」
「そうですねぇ」
零は唇に指を当て考え込む素振りをしながら、意味深な笑みを浮かべた。
「広義での平安、でしょうか?」
「……」
「あるいは、もっとも安直な逃避行動」
「……お前に僕の何が解る」
小さな声が、同じ言葉を繰り返す。伏せた目が不安定に揺れている。
零は幾分憐れみを含んだ優しい声音で、膝を抱えて小さく蹲る青年に語りかけた。
「死ぬのは怖いですか」
「怖いよ。当たり前だろ」
一ノ瀬は哂う。
「怖いから死ねないんだ。僕は臆病だから」
「それを臆病と呼ぶものでしょうか」
「わかった風な台詞はもうたくさんだ」
「それは失礼」
「……あんたさっき、僕の望みを叶える為に来たって言ったよな?」
「ええ」
「じゃあ、僕を殺してくれるのか?」
「いいえ。
残念ながら、私は貴方の肉体にに干渉する術を持ちません。貴方が私を傷つけられないようにね」
「さっきからあんたの話は回りくどくて解り辛い」
「よく指摘されます。直そうと努力はしているのですがね。では簡潔に」
一ノ瀬の眉間に、二本の指が突きつけられた。
「これから貴方を猛獣の檻に放り込みます」
「……は?」
一ノ瀬は呆気にとられて、二つ揃えて伸ばされた指を見つめ返す。ピントがずれ、周りの風景が歪んだ。
激しく瞬いて、軽い吐き気を伴う違和感を振り払う。不意に目の前にあったはずの気配が消えた。目を開く。
冷たい風が一ノ瀬の顔を撫でた。何年ぶりに感じる、外の空気。
「どう振舞うかは貴方次第。
思うままに踊ってください……貴方の命が尽きるまで」
言葉を失くした一ノ瀬の耳元で、夜の風が囁いた。
目の前に渦巻くのはもう、平面に描かれた作り物の闇ではない。無数の叫びと嘲笑と恐怖を飲み込んだ真の漆黒が、彼の前に立ちはだかっていた。