イノセンス

炎に包まれたビルの一室で、ふたつの人影が対峙していた。

彼らの周りには、かつて生物だった炭の塊がいくつも転がっている。怨み言を呟くように、黒い煙を燻らせて。

「このまま世界が燃えてしまえば良いのに」

一ノ瀬が顔を歪める。

「そうすれば良いじゃない」

侮蔑を隠さず、四ツ谷が笑った。

「あんたの望みを邪魔できる人間は、この世にいないんだからさ」

熱波が巻き起こり四ツ谷の頬を炙った。床が不気味な軋みを上げている。思わず一歩後ずさった。ビルが崩壊する時は近い。

一ノ瀬は己の腕を引きちぎらんばかりに掴み、俯いていた。服には焦げ跡ひとつ無い。

「死なせたくない人もいるんだ。こんな僕に優しくしてくれる人を、悲しませたくない」

「優しいんだね」吐き捨てる。「反吐が出る」

鋭い口笛がフロアに響く。部屋の隅から黒い塊が駆け出し、四ツ谷の足元に傅いた。

どこかの壁が轟音を立てて崩壊した。爆破のように巻き起こった火災の衝撃で窓ガラスは弾け飛び、そこから吹き込む風が殊更火を煽る。

彼は自身の能力を操れないといった。果たしてそれは本当だろうか?焦げた髪を摘み上げて、四ツ谷は思う。

四ツ谷の『家族』は一ノ瀬に牙を向いたが為に火に焼かれた。

狂ったように走り回り、咆哮の代わりに炎と煙を吐いて、動かなくなった後も火は執拗に犬達の肉を燃やし続けた。

だが、四ツ谷自身は一ノ瀬に何の危害も加えていない。犬が一ノ瀬に襲い掛かったのは、彼らの縄張りに―――このビルに侵入したからだ。

四ツ谷の命じた事には違いないが、一ノ瀬を狙えと命じた訳ではない。

それでも彼はこうして殺されかけている。直接的ではないにしろ……いや、彼の能力がこのビル自体を『害為すもの』と見なしたということか。

なんにせよ、一ノ瀬の能力は確実に変化している。『危害を加えるもの』から『一ノ瀬が危険だと感じたもの』へ。進化か、それとも暴走か。

過剰なほどに自身を護ろうとする彼の能力の本質がどこにあるのか知らないが、確かにこのまま行けば、世界が彼によって燃やし尽くされる日も近そうだ。

四ツ谷は笑おうとして、煙に噎せた。

「まともに相手してたら、命が幾つあっても足りないよ。帰ろ、十和」

四ツ谷が十和の首に腕を廻す。十和は少年を軽々と肩に担ぎ上げ、大股に窓辺へ歩み寄る。

一ノ瀬は下を向いたまま動かなかった。熱い風に散らされた髪の隙間から、光の無い目だけがこちらの動きを追っているのが四ツ谷に見えた。

窓の外に目を移す。違う方向に逃げる人影が二つ。赤い傘には見覚えがあった。もう一人は見定める前に建物の陰に消えたが、交戦した跡が残っているから八代か六角だろう。

どちらにしても、四ツ谷と十和にとっては大した障害ではない。

十和が外へ飛び出す瞬間、一度だけ後ろを振り返ってみた。

両手で顔を覆い紅蓮に包まれて立つ一ノ瀬の姿は、いつか本で見た、巨大な炎の翼を纏う天使のように赤く滲んでいた。

2008/11/25