証明

ビルの屋上に吹く風は強く、三木の髪を激しく散らした。

それでも彼は、フェンスの縁に指を引っ掛け、ちょうど秋の終わりの蜻蛉がそうしているようにじっとしがみ付いていた。

彼の視線は遥か下、人々の行き交う街の中心に落とされている。

「何を見ているのですか」

いつの間にか、三木が手を掛けるフェンスの上に零が立っていた。

風が吹き荒ぶ中、彼はいささかもバランスを崩さず、地に立っているのと同じように直立の姿勢を保っている。

「スクランブル交差点を」

「ほう?」

「ここからだと、人間が飴玉に群がる蟻に見える」

「なるほど」

零が微笑んだ。

「なかなか皮肉屋ですね」

三木は別に皮肉を言ったつもりは無く、ただ見たままの光景をよく見知るものに喩えたつもりだったのだが、零の言葉に異論を唱えたりはしなかった。

「しかし、君の言うとおりだ」

零は勝手に話を進める。

「彼らは甘い飴に集る蟻だ。

己の欲求を満たそうと、皆この街に集まってくる。

そして、蟻を餌にする生物も……」

零が街の一点を指差した。三木はそれを目で追う。派手な服を着た女が、サラリーマン風の男の腕にぶら下がるようにして歩いていた。よたよたと歩く姿は、尻を繋げた格好で地べたを歩き回る番の蛾だ。

「君は毎回、面白い喩えを持ち出しますね」

零が片眉を上げ、感心したように言う。

本心なのかからかわれているのか三木にはわからなかったが、ありがとうございますと小さく頭を下げた。

「好きなんです、昆虫観察」

「奇遇ですね。私も観察が好きです」

私の観察対象は君たちですが……呟くように付け足して、零は空を見上げる。夜更けても明るい空に、薄い月が貼りついていた。

三木は相変わらず下界を見下ろしていたが、頭ではまったく別なことを考えていた。

「ずっと聞きたいと思ってました」

「はい?」

「理由を」

「何の理由でしょう」

「あなたが俺たちを集めた理由を」

「……ふむ。君はどう思いますか?」

「俺たちに……殺し合いをさせる、為?」

三木が顔を上げる。

零は虚を突かれた様子で息を呑み、次いで、くっ、と噴き出した。

「く、くく、いや失礼。

まさかそう来るとは思わなかった」

「違いましたか?」

「違いますねぇ。

ついでに言うと、私が君達を集めた、というのも間違いです」

忍び笑いを収め、零は言葉を続ける。

「君達をここに呼んだのは―――そうですね、神と言ってもいいかもしれない。

明け透けな言い方をするならば、まったくの偶然です。

いえ……これも間違いですね。君達が偶然に集まるよう『既に仕組まれていた』と言いましょう」

「仕組まれていた?誰に?」

「誰か、ではありません。

大いなる意思の集合体、自然、摂理、そう呼ばれるものです。

私も『それ』に選ばれた。君たちとまったく対等な立場です。存在する時空が異なるだけで」

「その……『それ』は、何の為に俺達をここに?」

「証明の為です」

「何を?」

「幸福の定義―――或いは、平和と狂気の均衡」

三木は首を振る。まったくわからない。

「まるで謎掛けだ」

「真理ですよ」

零は楽しげだ。やはりからかわれていたのかもしれない。

あるいは、二階堂や四ツ谷なら理解できたのかもしれないが。

「どうやら私は、君を混乱させてしまったようですね。謝ります。

代わりといっては何ですが、ひとつだけ、アドバイスを」

零は言って、人差し指をぴんと立てた。

「誰よりも視野を広く持っていなさい。

君は弱い。しかし、賢い。

君は確かに、真実を見抜く力を持っていると、私は思いますよ」

三木は自嘲気味に笑った。

「弱いですか、俺は」

「……口が過ぎました。申し訳ありません」

「いえ、俺もそう思ってますから」

三木の能力は実戦向きではない。なにより、脆い。

それでも彼は、この能力を気に入っている。彼は愛するものとひとつになった。これ以上の幸福は無い。

「その感覚が大事です」

零は諭すように言った。

「能力を受け入れ同調する事。澱み無い流れは、時に実力以上の力を生みます」

「相変わらず、あなたの話は難しい……でも、言いたい事はなんとなくわかりました」

三木はポケットを探り、小さく軽い亡骸を取り出した。

指先でつまんだそれを口腔に入れ、舌先で愛撫した後、頤を反らして噛み砕かずに飲み込む。

何かがTシャツの背中を押し上げた。服を脱ぐ。背中に白く濁った、小さな翅が生えている。彼は両手でフェンスにしがみ付き、体を震わせ、血液を翅に送り込む。翅は徐々に伸び、彼の体躯を追い越すほどに拡がった。

やがて彼の背に、黒縁にガラスで膜を張ったような薄い羽が完成した。

「すばらしい」

零は感嘆の声を上げる。

「美しい。まるでステンドグラスだ。なんという昆虫ですか?」

「ツクツクホウシ。蝉の仲間です」

三木は屋上の縁を強く蹴った。翅が開き、低い唸りを上げて飛び立つ。

迷い無く真っ直ぐに空を翔る姿が雲の切れ間に消えた瞬間、零の姿は何の前触れも無く、屋上から消失した。

2008/11/22