六角はひたすら前を見据えてのろのろと歩を進めた。
足を前に出すたびに腹の傷口がじわりと痛む。数分前からその感覚すら鈍くなり、殆ど痺れしか感じない。
道程、いい加減倒れて楽になりたいと何度思ったかわからない。だが、今死ぬ訳にはいかないのだと、歯を食いしばって鉄塊に変わってしまったような足を踏み出す。
途方もない時間をかけ、やがて彼は目的地にたどり着いた。
廃墟のようなビル。ブラインドの隙間から漏れ出す光と香ばしいコーヒーの香りがその一室に住人が存在する事を知らせている。
錆の浮いたドアに体重を掛けるようにして押し開けた。ドアベルが激しく鳴り、開き切ったドアが壁にぶつかった弾みで外れ、軽い音を立てて床を転がっていった。
「ちょっト、人ン家壊さないでくれませーン?」
耳障りなイントネーション。
書類に埋もれかけたデスクに頬杖を突き、二階堂が憮然とした表情を浮かべている。
深夜の来客を快く思っていないのは明らかだが、そんな事に構っている余裕など無い。
「煩ェ、運べ」
二階堂が立ち上がるのを待たず、ふらふらと部屋の中心まで体を運ぶ。
そこにはステンレス製の処置台が据え付けられていた。蛍光灯の青白い光に浮かび上がるそれは執拗なほど清潔に磨き上げられていたが、それでも消しきれない『跡』が所々に残っている。
上半身を乗せたところでとうとう力尽き、ずり落ちかけた六角の体を二階堂が引っ張り上げた。
「アナタ方も飽きませんネー」
仰向かせ簡単に視診する。浅くはないが、致命傷に至らない程度の傷。明らかに死なせない事を意図した斬り方。
「手加減されてるじゃないですカ。カッコ悪ーイ」
「さっさと傷塞げ」
「毎回言ってますけド、ここは病院じゃないシ、ワタクシは医者じゃなくて解体屋なんでス」
「だったら何だ。俺をバラすか」
「そんなことしたラ、ワタクシが九重サンにバラされちゃいますヨ」
二階堂の背後から二本の太い触手が伸びた。触手の先は人の手のようになっている。それと異なる点は、指に当たる短い触手が人より一本余分にある事と、指それぞれの先端に爪ではなく細長い針が備わっている事だ。
触手は六角の体を嘗め回し、傷の状態を確認する。一通り撫で回したところで動きを止め、二階堂は六角の顔を覗き込む。
「で、麻酔なんですガ……」
「いらん」
六角が、意識をそのままに体の自由を奪われるあの感覚を厭う事を、二階堂はよく知っている。
「でも麻酔打たないト、すーっごく痛いですヨ?」
「いいから」
「今そんなに痛くないのは麻痺してるからですヨ。
すぐに痛みが戻ってきまス」
「わかったから黙ってやれ!」
毎度の事だが頑固な男だ。二階堂は溜息をつき、後で文句言わないでくださいネと念を押してから処置を開始する。
腹の上で寝そべっていた触手が息を吹き返したようにざわざわと蠢き、傷口に取り付いた。
針の付いた指先が傷口の中に潜り込む瞬間、六角の体が強張るのを感じたが、まだそれほど痛みは感じていないはずだ。針先から薬を打ち込み引き合わせて固定しておくと、離れていた肉が癒着する。それを少しずつ、繰り返す。感触と勘が頼りの繊細な作業だ。
六角が低く呻いた。徐々に感覚を取り戻しつつある。いい兆候だ。本人にとってはそうとも限らないだろうが。
「痛ぇ」
「知ってまス」
「喋ってていいか」
「勝手にどうゾ」
会話に気を逸らせる状況ではない。二階堂は手の甲で顎から滴りそうな汗を拭う。
「何故奴は俺を選んだ?どうして俺だったんだ?
刑事なんて他にも腐るほどいるじゃねえか。俺でなきゃいけない理由なんてあったのか?
俺は奴の気まぐれで仕事も仲間も家族も奪われて、俺は、俺の、俺の人生って一体なんだったんだ?俺は何のために生きてるんだ?
奴に復讐する為だ。あの野郎に復習する為だけに俺は生きてるんだ。九重を殺すまで俺は死ねねえ。
昔同僚だった男に言われたよ、俺も奴と同じものになっちまったって。上等だ。あいつ殺すためなら何人だって殺してやるよ。あいつは化物なんだ。俺も化物まで堕ちてやろうじゃねえかよ。
…っくしょう死ぬほど痛ェんだよクソッタレ!」
「だからすごく痛いですヨって言ったでショ。麻酔要らないって言ったのは六角さんですからネ」
二階堂は呆れて首を振る。
「ナントカは死ぬまで治らないと言いますガ……」
「ぁあ?」
「いえいえいえいえ、何でもありませーン!
あ、傷はちゃんと塞がりましたヨ。今からもう一試合ヤっても差し支えありませン」
不自然な大声で誤魔化しつつ、触手を引っ込める。
六角は己の腹を見下ろした。赤い亀裂が走っていた場所を、ピンク色の蛇がのたうっている。
「でも、今夜は大人しくしておいて下さいネ。
また来られてもここまでキレイに塞げるか判りませン」
疲れた声でそう言い、二階堂は傍らの丸椅子を引っ張り寄せ、その上にへたり込むように腰掛けた。
言われるまでも無く、塒に引き上げるつもりだった。処置台を下りる。足を床につけた瞬間僅かに疼くような感覚を覚えたが、傷痕を擦ると消えた。
「借りは今度返す」
「……期待しないで待ってますヨ」
二階堂は口の端だけで笑って、そのまま処置台に突っ伏した。呼吸音はすぐに規則正しい寝息に変わった。