狂犬

「動くなァ?」

九重は鼻先で笑った。

実際に動けなくなっているのは彼ではなく、銃を構えている若い警官の方だった。

それを実戦で使うのは初めてなのか、銃口は頼りなく震えている。撃ったところで、九重を掠りもしないだろう。

パトロール中自主的に休憩を取ろうと思い立った彼は、先輩警官の目を逃れるため廃ビルに忍び込んだ。

煙草に火を点けた時、男の喚き声を聞いた。また悪ガキが忍び込んで、乱痴気騒ぎをしているのだろうか?彼の予想は当たっていた。数分前までならば。

宴の主賓は、若者らから赤い着物の男にとって代わっていた。彼が室内に踏み込んだ時、九重はうつ伏せて泣き喚く男の背中を踏みつけていた。

「情けないねェ、ちょっと肩切った位で。

ほれ、上向きな」

肉が抉れた肩を蹴りつける。

悲鳴をあげ、うつ伏せていた長髪の若者は仰向いた。

「た、たす」

弱弱しい懇願を最後まで待たず、九重は刀を横一文字に振るう。

腹が割け、赤い中身が溢れ出す。若者は仰け反り、少しの間痙攣して、やがて永遠に動かなくなった。

警官が悲鳴を上げた。蝶番が外れかけたドアにしがみ付いて、警官は長い長い悲鳴を迸らせていた。息が切れて、それでも恐怖を吐き出そうと嗚咽めいた声を漏らす。

咽喉が嗄れ、血の混じった痰を吐いて、ようやく彼の悲鳴が止まった。ぜえぜえと息を吐きながら警官が顔を上げると、血に濡れた九重の顔がこちらを向いていた。

「う、うぅ、動くなッ!」

ここで場面が冒頭に戻る。

パニックに陥っている警官はわかっていないが、あれほど無防備な姿を晒していた警官がまだ生きている時点で、九重はすっかりやる気を失くしていた。

乱れた着物を申し訳程度に整えて、刀を携えたまま、警官のいるドアと反対方向にある窓のほうへ歩を進める。

「う、動くなって言ってんだろうが!」

警官が発砲した。

案の定弾は素っ頓狂な方へ飛び、九重からだいぶ離れた位置にある窓ガラスに着弾した。

派手な音を立てて、ガラスが砕け散る。

九重が再びドアの方に向き直った。警官は自分の判断を後悔した。

「そんなへっぴり腰でアタシを殺そうっての?

ふ、はは、あははははハハハハハハハハハハハハハ!」

凄まじい咆哮のような笑い声が部屋に反響する。

警官は指一本動かすことも出来ず、凍りついたように目を見開いていた。

不意に、まったく唐突に、笑い声が止んだ。

「巫山戯たこと抜かしてンじゃないよ」

九重が跳んだ。

常人ならば十歩掛かるところを、一足に跳び越えた。

二歩目を着いた時、警官の喉元に切っ先がつきつけられていた。彼は腰を抜かしてその場にへたり込む。太腿に温かいものが滲んだ。

「アタシのこれが欲しいなら」

指先で咽喉をとんとんと叩く。

「人間辞めてから出直してきな。あの男みたいに」

倒れた警官を跨ぎ越し、九重は悠然と歩み去る。

ふらふら揺れる赤い背中が視界から完全に消えた時、警官は子供のように泣き出した。

2008/11/19