目の前にそそり立つ巨男は明らかにこちらを敵視している。
「これはヤベェだろ」
七海には、掌に滲んだ汗を拭う余裕も無い。
相手は素手だ。だがその手が鉄製コンテナの角を毟るように引きちぎったのを見た時、七海は戦意を消失した。
これには勝てない。どう足掻いても。
そもそも彼がこの倉庫にやってきたのは、仕事のためだ。
七海の仕事は掃除であり、殺しではない。それは九重の領分だろうに。
今さら心のうちで毒づいたってしょうがない。彼はプロフェッショナルの清掃員であり、不測の事態にも対応できて然るべきなのだ。
そんなことはわかってる。だが、誰が想像できた?
死体しか転がっていないはずの仕事場に、怪物が紛れ込んでいるなんて。
風を切る音。咄嗟に腰を落とす。頭を狙った容赦の無い蹴りが頭上を掠め飛んだ。
一発でも喰らったら確実に致命傷。
脚の下を潜るように後ろに回りこむ。この男、力はやたらとある癖に隙だらけだ。軸足の脛を思い切り蹴りつける。
「硬ってぇ!」
ダメージを受けたのは七海の方だった。
脚を抱えて悶絶する七海の体が宙に持ち上げられる。顔を上げると、黒目がちの目がひたと見据えていた。
もう駄目。打つ手なし。俺、死ぬっぽい。
猫のように襟首を掴まれて、せめてあんまり痛くありませんようにと祈りながらその時を待つ。
だが彼の予想に反し、飛んできたのは男の拳ではなく澄んだ少年の声だった。
「手を離すんだ、十和」
男は命令に従った。
空中で開放された七海は強かに尻を打つ。その痛みがまだ生きていると実感させてくれた。
腰を擦りながら立ち上がり、辺りを見回す。暗がりの奥に誰かの気配。だが、それ以上のことはわからない。
「ごめんごめん、こんなに早く来るとは思わなかったから」
少年の声は四ツ谷と名乗り、素直に謝罪を口にした。彼が依頼人本人らしかった。
「これ、お客さんのペット?」
憮然として、七海が問う。
個人の趣味に口出しする気はさらさら無いが、躾はきちんとしてもらわないと困る。
「俺、危うく死に掛けたんスけど」
「十和の食事に時間がかかっちゃってさ。 その分、色つけとくから許してよ」
食事とは、つまり……
七海は唾を飲む。どうやら俺は思っていたより危険な状況にあったらしい。
積み重なった死体をちらりと窺う。どの死体も腹の中身が綺麗に無くなっている。
「でも掃除屋さん、結構強いね。次もあんたに頼もうかな」
「……まいど」
どうやら厄介なお得意様が、また一件増えそうだ。