容赦無い西日が部屋を燃やしていた。
眩暈を起こしそうな夕焼けの中で、夕焼けと同じ色の髪をした彼はだらしなく床に座り、本の山に上半身を凭れさせ、分厚い古書に鼻先を埋めている。
「……そろそろ床が抜けるね」
俺の呟きに対して、彼は返答どころか反応の欠片も見せなかった。
夕食時ということもあり一階の酒場はそれなりに騒がしかったが、二階の個室まで届くのは靴底をくすぐる振動くらいで、ドアの前にいる俺からたっぷり五歩分は離れた所でページを捲る音が届く程に部屋は静かだった。
声が届かなかったのでも本に没頭しているのでもない。
彼は俺が部屋に入ってきたのを分かっていて、意図して俺の声を無視している。
俺と彼の間で正常なコミュニケーションが成立しないのはいつものことで、いつも通りその意図は不可解だった。
ついさっき俺に喧嘩をふっかけた挙句、無様に地を舐めたのが気まずいのか?
それとも俺に同行した陰気な傭兵にとどめを刺されかけたのが堪えたのだろうか?いや彼はそんな殊勝なタイプじゃあない―――
ゆっくり瞬きをして、彼の行動についての推考を打ち切った。
人間の機微というやつに疎い俺が、気難しい彼の捻くれた思考回路を読み解くなんて、鍛冶屋に古代の魔道書を解読させるようなもので、つまり虚しさと苛立ちの他に得るものはない徒労だ。
いや。
そもそも、あれこれ気を回してやる必要など無かった。
わざわざこちらから働きかけるまでもなく、俺が動けば、彼は追って来る。蜜を求める蝶のように。
違うな。蝶なんて可愛らしい虫じゃない……蜂だ。
ちいちゃくてオレンジ色で、一本きりの小さな針で人を刺そうと躍起になって、ぶんぶん喧しく顔の周りを飛び回る。
そんな事を考えていたら、目の前の彼のぼさぼさ髪が丸蜂の胸を包む房毛に見えてきて、うっかり忍び笑いを漏らしたものだから読みかけの本が飛んできた。
ほらやっぱり、さっきの俺の声だって聞こえてたはずなのに、さ。
本は俺の胸に当たり、ページを下にして床に転がった。
無惨にひしゃげた本を拾おうと屈みこんだ瞬間、胸がずきんと痛んだ。角に当たったみたいだ。痣くらい出来たかもしれない。
俺は彼に微笑みかける―――なるべく優しく、親しげに見えるよう心がけて。
彼の目は羨望と憎悪に燃え滾り、視線で心臓を刺し貫こうとばかりに俺を睨む。嬉しい。死と暴力に陶酔する双眸が今この時は俺を見ている。俺だけを。
からからになった唇を、舌先で湿す。
「これから探索に行くんだけど、君も一緒にどう?」
彼は本の山から手近な一冊を抜き取り、何事もなかったかのように読書を再開した。
「勝手に行けよ。僕には関係ない」
「関係ない? そうかなぁ」
含み笑いで言えば、彼はぱっと顔を上げ、訝しげな視線をよこす。
言葉の真意を測りかねている。彼の表情は滑稽なほど素直で、不意に泣きたくなった。
彼が好きだ。
彼は俺を欲している。汎く愛情と呼ばれる定義不能の感情よりずっと確かな激情をもって。
蜜は既に蜂の羽を捕えた。いずれ溺れる蜂の垂れ流す毒は蜜を汚すだろう。そしてそのまま腐り果てよう。俺と君の破滅の物語に世界が巻き込まれようと、それが誰の用意した筋書きであろうと時が来れば俺達以外の誰かが勝手に辻褄を合わせ、そうでなければ世界が終わるだけ。
ただ、それだけ。
「先に下、降りてるよ。
……待っててあげるから、君も早くおいでよ」
ねえ、早く、おいで。
俺達の物語にピリオドを打つために、暗くて冷たい奈落の底へ君が来るのを。
先回りして、待ってるよ。