一番高い天窓から月が見えた。
ということはそろそろ真夜中に差し掛かる頃合だろうとキャシアスは当たりをつけた。
彼は人気のないエントランスホールで階段に腰掛け、物思いに沈んでいた。
時おり壁際に据え付けられた燭台の炎が揺らめき、その時だけ彼は一瞬、目の端に研ぎ澄ました光を宿す。
それもつかの間のことで、瞬きを二つする間に、夜警する狼の眼は青年の穏やかな瞳に返った。嫌な習慣がついてしまったな。彼は唇を噛んで何かを耐えるような顔をした。こみ上げる感情を飲み込む時、彼は決まってそういう顔をした。
階段の手すりに軽く頭を打ち付けると、金属の細い柱がくぉん、と鳴いた。まだ眠れそうにないな、と、キャシアスはぼんやり考えた。ぶつけた頭は今さらじんわりと痛みを訴えた。
明日の予定について、いくつか考えをまとめた。懸案はいくらも無いように思えた。
それから、今頃は客間のふかふかのベッドに沈み込んで夢を見ているであろうアルソンの事を考えた。
上流階級らしく品良く整った居ずまい、少しくせの付いた金の髪、眩いくらい(実際彼を知る者の何割かは、まともに見たら目が潰れるとでもいうように顔を顰めるのだ)晴れがましい笑顔を思った。
ここを去る時もやはりそんな風に笑うのだろうなと思い、止せばいいのにその情景を想像して胸中をめたくたに引っ掻き回されたような気持ちになる。
俺はばかだなあ、と、キャシアスはまた唇を噛んだ。
いっそばかみたいに楽しい事を考えてみようかな。しばらくの間、彼は想い人と二人、世界の方々を旅して回る空想をした。
キール山地から吹き降ろす強風が、麦畑をまるで途方もなく大きなシーツを均すように波打たせるのを見た。薬草通りに立つ蚤の市で、肌の黒い女とせむしの小男が踊る異国的な演舞を見た。月の森で、大層立派な枝角を戴く牡鹿が苔色の闇が秘匿する彼の領地を悠々と歩むのを見た。
日が暮れれば小さな焚き火を囲み、見聞したことについてあれこれと話し合い、笑い疲れて眠る。
それは、幸せで虚しい旅路だった。頭蓋の檻から逃れることは叶わない、悲しい逃避行だった。
それでも避け得ぬ離別に胸を塞ぐよりましな気分で、キャシアスは目を瞑り都合のいい妄想の奥底に沈んでしまおうとする。と―――
「まだ寝ないんですか?寝坊しちゃいますよー」
朗らかな声は絵空の世界で連れ立つ彼と符合しながら、確かに現実からキャシアスに呼びかける。
キャシアスは飛び上がるほど驚いて、本当にこぶし二つ分ばかり飛び上がって―――
「いッ!?」
―――一段下に尻から着地した。
「…たぁ……ぃ」
目の前がちかちかした。強か打ち付けた腰はずきずき痛む。返す返すも惨めたらしい己の有り様に、キャシアスは少し泣きたくなった。
痛めた辺りを手で擦りながら上半身だけ捻って段上を仰ぎ見れば、そこには思った通りの彼が立っていた。
服装だけはいつものプレートアーマーではなくこざっぱりしたダブレットを着ている。枝垂れる金の毛束に仄明かりが絡みつき、きらきら光りながら肩口に滴っていた。
「だ、大丈夫ですか!」
「ははは……」
本当は泣きたいキャシアスは、とりあえず笑ってみせた。何か言わなければと思って、結局、何も思いつかなかった。
手すりを手がかりにぎこちなく立ち上がる。アルソンが階段を降りてきた。
蝋燭の灯りは部屋の隅でぼやぼやと蟠るばかりで、天窓から流し込まれる月光が世界から生彩を奪うのを食い止める助けにはならなかった。踊り場のアルソンは青ざめて、まるで死んだ貴族の肖像画のように厳かな風貌をしていた。
死んだ貴族!キャシアスは身震いする。俺も彼も明日そうなっていない保証はどこにもない。
「キャシアスさん?」
困惑した声。はっとした。アルソンはもうすぐ目の前にいた。
そしていつの間に、なぜそんな事をしてしまったのか、キャシアスの右手は彼の左手を掴んでいた。
自分のしたことに驚きながら、それでもキャシアスは握った手を離せない。離したら、彼は月白のカンバスの向こうへ一人ですたすた行ってしまって、それが何でもない事のようにこちらへ笑顔で手を振って……それきりもう二度と、触れる事の出来ない遠い場所へ行ってしまうのではないか。
突拍子もない想像は、あるいは彼の無意識が予見したもっと暴力的でありふれた決別の寓喩に過ぎないのかもしれない。何にせよ悲観的なだけの妄想であることに変わりはないが、キャシアスは喉が詰まるような恐怖に駆られ一層強くアルソンの手を握り締めた。
アルソンは目を丸くしてキャシアスを見つめた。やがて視線は下に落ち、掴まれた手に注がれる。
すぐに彼は柔らかく微笑み、キャシアスの右手に自分の右手を重ねて、子どもを寝かしつける母親のように優しく二回叩いた。
取り縋るような心持ちで、キャシアスはアルソンを見上げた。
浮かべた笑みには戸惑いの気配こそ残すが、嫌悪や痛みを訴える素振りはまったく見えなかった。彼の眼は変わらず温かく年下の友人を見留める。輝く瞳の中には澄んだ青天があった。夜の暗さを知らない空だった。
それは素晴らしいことだとキャシアスは思う。皮肉ではなく。彼の心は今朝ほころんだ薔薇のつぼみのように無垢で、疑いようもなく美しかった。
貴く、善良なものと共にあるという確信は、ただそれだけでキャシアスを勇気づける。今も。
「このままお部屋までエスコート致しましょうか、キャシアス殿?」
アルソンは洗練された動作で、貴族ぶったお辞儀を披露した。キャシアスは笑った。感情と行動が合致するのは、とても気持ちがいいことだった。
月は常夜に狂気奔らせんと躍起になって輝いた。が、キャシアスの方はすっかり白けてしまった。
夜は凍てつく深閑で、ただそれだけで、殊更何かを奪い去ったりはしないものだ。なのに俺ときたら、月の施す死人色のめっきに怯え、独りよがりに妄想を転げ回って、ああ本当に、
「ばかだよなぁ」
「え?」
「アルソン、俺ってさ、ばかみたいだよねぇ」
「……誰だって、そういう時はありますよ」
たまにアルソンは、心を見透かしたような台詞を言う。
ようやく節が白く浮くほど力を込めた右手に意識がいって、キャシアスは手を離そうとした。
キャシアスの右手が完全に脱力しても、もちろんアルソンが冥闇に攫われるような事は起こらなかった。
その上驚くことに、ふたつの手は繋がったまま宙に浮かんでいるのだった。なんて慕わしく温かいのだろう、彼の手―――彼の、手!
気付いて、とたんにキャシアスはそわそわと落ち着きをなくす。それは幼い日に待ちわびた冬至節の朝の気分に似ていた。屋敷中の扉を開け放ち幸福の兆しを探したあの日の、体の奥をむず痒くする興奮。
明日の事は明日の俺が考えるさ。一度深呼吸をする内に、キャシアスは本来の闊達さをすっかり取り戻していた。だから今の俺はもっと楽しい事を考えよう。
例えば、手の内のぬくもりを少しでも長く引き留める為の。二度と戻らないふたりの時間を、より素晴らしくするような。
「なぁ、アルソン」
ひとつ、思いついた。こんな月夜にうってつけの悪ふざけ。
「今夜は月が綺麗だから」
「だから?」
「踊ろう!」
「はい!」
気持ちのいい返事をしてから、
「えーっと、話の前後に脈絡がないような?」
首を傾げる。
「……真意を問わずして了承するのはあまりに軽率かと存じます、アルソン殿」
「そんなこと言って、キャシアスさんが誘ったんじゃないですかぁ!」
アルソンは拗ねたように唇を尖らせてみせたが、キャシアスが宥めるふりをするより前に笑い出した。
二人は大いにはしゃぎながら、手を取り合って階段を駆け下りた。エントランスホールの真ん中に辿り着くと、今度はうって変わって静かになった。というのも、お互い生覚えのステップを記憶の底から浚い揚げるのに必死だったのだ。
あれこれ試行錯誤した挙句、なんとかしっくりくる位置でアブラッソを組み上げる事には成功した。
アルソンの満足げな溜息が、キャシアスの首筋をくすぐった。
妖しい企みを放棄した月は、今は経験豊かな演出家の顔をして、舞台を劇的に照らしあげるのだった。
「なぁ」
「はい?」
「いる?」
「何が?」
「理由。踊る理由」
「うーん……聞きたくはあります」
「じゃあ、思い出作り」
「あっ、明らかに今思いつきましたね!」
「うん」
キャシアスがくすくす笑う。アルソンも真似して笑う。
「でもいいですね、思い出作り。僕ら二人の」
「そう。俺と、アルソンだけの」
忍び笑いが止み、無音のプラクティカは、真夜中のフロアをゆっくりと滑り出す。