ではあなた達に、もう一度だけチャンスを与えましょう。

しかし、チャンスを手にできるのは、ふたりの内のどちらか片方だけ。

さあ、どうしますか?

それでも、あなたは、人であることを望みますか?

片隅の孤島より、北の海へ

白い鯨は、深海を揺蕩っていた。

仲間の群れは遠く、光の差さない海、両隣はいつまでたっても冷たい塩水で、どうしようもなく孤独だった。

―――おとうさん

深く、もっと深く、白い鯨は大きな体をうねらせて海の底を目指す。

底までたどり着いたら―――そこにはどんな世界が広がっているのだろう。

少なくとも、そこはかつてふたりで暮らした光溢れる幸せな世界ではない。

白い砂と、黒い岩と、鯨の骨だけが転がっている荒廃した場所だろう。白い鯨の心のように。

―――おとうさん

呼ぶ声はどこまでもどこまでも、北大西洋の海に響き渡る。

海に満ちた音に魚は怯えて逃げ出し、船乗りは気が狂い、いつしかその海域に近づこうとする者は誰もいなくなっていた。

暗くて深い海で、白い鯨は途方もなく孤独だった。

「ああぁぁあああぁあぁあ」

彼は彼にしては珍しい真剣な目つきで、テープレコーダに珍妙な叫びを吹き込んでいた。

時々、間違えた、とか、やっぱり違う、などと小さく呟きながら、何度も巻き戻しては同じように唸り声を吹き込んでいく。

私は部屋の隅に座り込む彼の丸い背中に、脅かさないようできるだけ優しい声で話しかける。

「一体何を?」

彼はぴたりと唸るのを止め、やおら振り返り、大きく見開いた目で私を見つめた。

そして、落胆したようにため息をつく。

「なんだ、違う人か……」

「申し訳ない」

「? 何が?」

「あなたの待ち人で無いようで」

「待ってる? 誰が?」

「あなたが」

「誰を?」

「さあ?」

会話が途切れた。彼はレコーダーに向き直り、録音を再開する。

唇にマイクを押し付け、語るように、歌うように、微妙な抑揚をつけた声を嗄れた喉から搾り出す。

「ぅああぁうぁあぅ…ゲホッ、ぅああああ」

もう一度、その行為の意味を問おうと声を掛けようとして、部屋の隅に無造作に積み上げられた科学雑誌が目に止まった。

表紙には、水しぶきを上げて巨大な体を跳躍させる鯨の写真と、『特集・鯨の生態~エコーロケーションと家族の絆~』という大見出しが掲げられていた。

彼を見る。こちらには目もくれず作業に没頭している。

私はしばらく、彼を見守ることにした。

そう遠くない未来、彼は再び私の力を必要とするだろう。しばらく付き合うのも悪くない。何せ、私には時間が有り余っているのだから。

白い鯨は、不意に、光を感じた気がした。

深海では、およそ視力など無用の長物であるはずなのに、白い鯨は確かに、赤い炎と黒い翼を見た。

そして、語りかける声を聞いた。

『こんばんは、お久しぶりです』

低く静かな、しかしよく通る声は、聞き覚えのある声のような気もしたし、初めて耳にする声のような気もする。

『あなたに小包が届いていますよ』

カチャカチャと硬い物が触れ合う音がして、

(似たような音をどこかで聞いた気がする、はっきりと思い出せない)

カチリ、とボタンを押し込む音がした。

(そうだ、家にあった時代遅れのカセットデッキだ……《家》ってどこだ?)

そして、数秒の篭もったノイズの後、誰かの声が流れ出した。

―――おとう、さん?

懐かしい声だった。

その声は確かに白い鯨の名を呼んでいた。鯨自身も忘れてしまっていた名前を。

響く声は、白い鯨の脳裏に、いつかの風景を描き出した。

狭い部屋、二人の男、床と壁いっぱいに描かれた絵。

―――おとうさん

白い鯨は啼いた。

遠い島国に生きる家族に届くように、何度も、何度も啼いた。

その声にはもう、胸の塞がれるような悲痛な響きは無い。

水流にくるくると踊りながら、白い鯨と壊れたカセットデッキは、いつまでも歌声を交し合っていた。

2009/1/19