――――こんこん
背後から聞こえた微かな音に、胸が高鳴った。
恋する少女の胸のときめきとか、そんな可愛らしいものではなく、夜道でいきなり声を掛けられたような、心臓に悪い類の高鳴りだ。
鍋の火を止め、直ぐに窓に歩み寄る。カーテンは閉めていないので―――いつからか、そんな習慣がついてしまった―――表で風に揺れる木の枝に、白い鳥のような影が見えた。
「上がれよ、鍵、閉めてないんだから」
俺の言葉に、影が笑った気がした。知っていて、待っているのだ……俺が窓際まで迎えに来るのを。
影が揺れて、静かに窓が開けられた。慣れたしぐさで脱いだサンダルを枝に引っ掛けて、するっと部屋に滑り込む―――掠めるようなキスをして。
「よぅ、久しぶり」
「……うん」
俺はなんとかそれだけ言って、俯いてしまった。
顔をまっすぐ見られない。言いたいことも、したいことも、一月姿を見せないことについての文句だって……コイツがいない間、何度も何度も考えていたのに、いざ目の前にして、すっかり吹き飛んでしまった。
じっと立っていると、白い手が頬に触れた。冷たい、もう冬が近いんだ……そんな、どうでも良いことが頭を過ぎる。
「な」
「え?」
「とりあえず、割烹着脱げば?」
笑った左近を見て、ようやく肩の力が抜けた。
台所から戻ってくると、炬燵から左近の頭が突き出しているのが見えた。いや、頭だけじゃない、手も出ている。時折炬燵の上に手を伸ばしては、かごに山盛りのみかんを取り上げ、畳の上に積み上げている。
「……暇なら手伝えよ」
「暇じゃない、超忙しい」
思わず抱えた鍋の中身をぶちまけてやりたくなった。
左近はここに来るといつもこうで、縦のものを横にもしない。ただゴロゴロしながら、家事やちょっとした仕事を片付ける俺を見て、忙しそうだなァと呟いたりする。
『そう思うなら手伝え』と言うと、今忙しいと言い張ったり、そんなことよりこっち来いよと腰を引き寄せられたりして、結局うやむやにされるのだ。
でも、こうやって細々と世話を焼くのも悪くない……なんて、まるで新妻のようなことも、考えなくはない。
炬燵の真ん中に置かれた携帯コンロに、普段は使わないちょっと大きめの鍋を設置する。箸と取り皿を置き、湯飲みに茶を注いでやって、そこでようやく左近がむくりと起き上がった。
「おでんじゃん」
少しだけ目を見開いて、炬燵の縁に顎を乗せた左近の顔。普段は妙に大人びているのに、こんな時は歳相応の表情に戻る。
鍋のふたを開けると、出汁の香りと湯気が溢れ出た。
「ちゃんと二人分あるのな」
連絡もしないのに、と訪ねる左近に、
「今日はたまたま多く作りすぎたんだよ」
と、返した。
……本当は、今日あたり訪ねてくるんじゃないかと、半ば願望の混じった予想を立てていたのだけど。
へぇ、と言った左近の顔が、湯気の向こうで嫌な笑みを浮かべている。どうやら俺の行動パターンはすっかり読まれているらしい。
気恥ずかしいのをごまかして、さっさと左近の取り皿におでんの具を取ってやり、向かいに座ろうと立ち上がる……と、足首をつかまれて、俺はバランスを崩して前につんのめった。
「な、何だよ……危ない」
「お前の席はココだっての」
左近は俺の足首を右手でつかんだまま、左手で自分の隣をぽんぽんと叩いた。
狭いよ、と言うと、じゃあ斜め向かいに、とそそくさと立ち上がり、俺の座布団を動かした。まったく、こういう時は行動が早い。
自分の分のおでんを取り分け、ようやく炬燵に入ると、左近が満足そうに笑って、すぐに拗ねたように口を尖らせた。
「足、冷てーんだけど」
こんなになるまで裸足で歩くなよ、と叱られて、誰の為に台所仕事をしてるのかと思いながらも、ごめんと謝って頭を撫でてしまう。
俺はどうにも甘くなってしまうらしい、この年下の恋人の前では。