「また来る」と言って、お前はいつものように窓から出て行った。
こんな形で約束を守るくらいなら、もう二度と戻ってこなければ良かったのに。
お前は帰ってきた―――書類一枚になって。
「じゃあ、後は任せたから」
同僚が俺の肩をぽん、と叩いてへらへらと笑った。今日はウチのが誕生日でさぁ、と悪びれもせず言う。
その幸せそうな笑顔を、立ち上がって殴りつけてやりたい。吐き気と共にこみ上げる、憎悪とも嫉妬とも悲しみともつかない感情。
「……無駄話してないで早く帰ってやれよ。新妻が、待ってるんだろ」
声が掠れた。取り繕った笑顔は、きっと不自然に歪んでいただろう。だが、浮かれきった同僚はこちらの様子など気にも留めず、白いリボンの掛った小箱を手で弄んでいる。愛しい妻へ送る指輪か何か。ありふれた、愛の証。
―――俺には何も無い。
お前と俺は敵同士で、前触れもなしに部屋を訪ねてくるお前は、優しい熱だけ残して帰っていく。それだってすぐに消えてしまう。
それでも、俺には待つことしか出来なかった。
だって他に何が出来たって言うんだ?俺はどうすれば良かった?お前を追って里を抜ければ良かったのか?なあ?
そんな事、出来る訳が無いのに。
いつの間にか、同僚の姿は消えていた。夕日の赤に満たされた事務室で、俺は一人、書類に落ちた枯れ枝の影を見つめている。
部屋に戻ったのは、日付が変わった頃だった。
灯りをつけようとスイッチに伸ばしかけて―――やめた。上着を床に放り出し、ベットの上に倒れこむ。
冷たいシーツを撫ぜながら、考えるのはあの紙の事。
他の可燃ごみと燃やしてしまうのが嫌だった。迷った末に、千切って川に流した。少女趣味だと、己を嗤いながら。
あいつの死は書類一枚の、たった一行で片付けられた。解っていた筈なのに、その命の軽さに愕然とした。
あいつが俺を呼ぶ声も、俺しか知らないしぐさも、抱きしめられる時に感じる吐息の暖かさもそこには存在しない。
あるのは死。漠然とした、嘘くさい現実。
「……―――――――ッ!」
拳を壁に叩きつける。鈍い音は、すぐに夜の静寂に吸い込まれていく。
やり場の無い怒りばかり渦巻いて、うまくものを考えられない。ひどい目眩がして、目を閉じた。
こんこん
鼓動が跳ね上がった。
ベッドから跳ね起きて、窓を見る。カーテンは閉まっていない。外には闇が広がるだけ―――人影は、無い。
風で揺れた木の枝か何かが、窓を打ったのだろうか。詰めていた息を、ゆるゆると吐き出した。
いつからか、窓を打つ音を聞くと必ず目が覚めるようになった。カーテンを閉めなくなったのはいつからだったか。
あいつの顔を見ると安心するようになった。しばらく会わないと不安に駆られるようになった。久しぶりに会って「会いたかった」と幸せそうに笑うあいつを見ると胸が熱いような苦しいような想いで、ああ俺は本当にこの男に恋焦がれていると気がついた。
だが、それが今はこんなにも辛い。
立ち上がり、窓に歩み寄る。外を見ないようにカーテンを閉め、ベッドに戻った。
眠ってしまおう―――このまま耳を塞いで。目を閉じて。上掛けを頭まで引っ張り上げる。
こんこん こんこん
俺には何も聞こえない、何も見えない。
窓の外から聞こえる音も、おまえの笑顔も、胸を掻き毟りたくなるような愛しさも悲しみも。
お前は俺に何も残していかなかったのだから。
こんこん こんこん
お前はもういないんだよ、左近。