あの子の目を通して見る世界は憎しみのバイアスがかかり繰り返し見る悪夢のように色褪せていた。
かわいそうなあの子の唾液でとろけたソーダ・キャンディの瞳。
あいつらが唇の端から飛ばす臭くてキッタナイ唾がアタシたちの世界をどろどろに溶かしたんだって呟いたら、スペーサー『先生』は何か言おうとして、結局何も言わなかった。
バカバカしい、って思ったまま言えばいいじゃない。ひとりだけ知識人ぶっちゃって、あんたこそバッカみたい。
アタシたちみんな、ひとつの木の枝についた虫瘤なのよ。図鑑に載ってたぐにゃぐにゃの寄生虫と同じよ。
違うわ。
アタシはヨランダよ。アタシはアタシよ。他の誰かじゃない。
でも、アタシって?ヨランダって誰?
( 濡れたタイル、まだらに染まったシャワーカーテン、絶え間ない水の音。 )
タニアはキッチンでブルーベリーの匂いがする鍋をかき回していた。湯気の中にはタニアの歌う流行りの歌がふわふわと浮かんで、居心地のいい4月の午後だった。
私の彼は宇宙飛行士(スペーサー)、火星旅行のお土産は……違うわタニア、それじゃ頭に戻ってサビを二回繰り返しちゃうじゃないの。
もちろんこの子はそんな流行歌など知らなくて、絵に描いた『ニコニコいいおかお』を顔に貼り付けて、ロケットのおもちゃで遊んでる。
よくあるホームドラマの光景?その通りね。
ハリボテの家庭で上演される人形劇。二体の人形が動くたびに細い細い操り糸はどんどん切れていって、手足が一本ずつ動かなくなっていく。
不条理な観客は人形に酒瓶を投げつけて、どっと笑い声が起こる。最高ね。
ろくでなしばかりのソーダ・キャンディの惑星をあの子は銀色の宇宙船の丸いはめ込み窓から眺めていた。
( 揺れる視界、荒い息、耳に詰まった風を切る音の奥で心臓が暴れ狂ってる。走れ、走れ、もっと速く! )
アタシって誰かしら。
君は君だ、ヨランダ。
そんなことわかってるわよ、そういうことじゃなくて、ほら……かしこいスペーサー『先生』が考えるような難しい意味でってこと。
ふむ、つまり君の『レゾンデートル』ということだな。
『レゾンデートル』……存在意義。我々はお互いの存在どころか自分自身についてさえ曖昧にしか理解していないが、私の仮定が正しければ、だ。
前置きが長いわスペーサー、アタシにも理解できる話をして頂戴。
そう複雑な話じゃない……君はおそらく母親への思慕、彼女を支えたいという彼の想いから生まれた人格ではないだろうか。タニアの良き友、良き相談相手としての……
だとしたらスペーサー、アタシは遅すぎたわ。アタシがヨランダになった時、アタシの『レゾンデートル』はとっくに死んでいたのよ。
( クラクラするアルコールの匂い、手首に巻いた包帯、男の怒鳴り声、空飛ぶフライパン、土気色の顔、窓辺に飾った花、汚れたシャツ、落ち着きの無い午後のクラス、宇宙船と星のモビール、回る、回る、回る……待って、これってどこからどこまでが『アタシの』記憶? )
家の中に充満した胸が押しつぶされるような不安の空気が、息せき切って駆けてきたアタシの足をすくませた。
バスルームから水音が聞こえた瞬間、アタシの胸騒ぎは確信に変わった。だから、アタシの胸を締め上げるたったひとつの不安は『それ』を目の当たりにしてしまうことへの恐怖だった。
不規則な呼吸音がやけに大きく響く。ひゅっ、ひゅっ。
夢遊病の患者のようにふわふわした足取りでバスルームに進入する。吐き気がした。
ねぇアタシ、もうここらでやめにしない?もう終わったのよ。残念だけど。こぼれたバスタブの水は元に戻せないの。
なのに前へ進むの?これ以上つらいのはごめんよ、嫌よ、嫌、タニア、ごめんなさい、タニア。意思と裏腹にこどもの手はシャワーカーテンを引きちぎるように横に引く。
ああ。
喉から搾り出された叫びは絶え間ない水音にかき消されるほどにささやかな、ほとんどあえぎと呼んで差し支えないものだった。
実際に『こういうこと』は悲鳴を上げるとか泣き叫ぶとか、映画の女優のような悲劇の表現が出来るほど余裕を持てる状況ではなかった。
今から見るものを知っていたはずなのに、アタシのおぞましい想像をすべからく上回った、それは恐ろしい光景だった。
おおタニア、かわいそうなタニア!あと少しで計画通り、何もかもうまくいくはずだったのに。
彼女の飴細工の精神は内から外から悪鬼に嬲られ傷めつけられ食い荒らされて、ついに壊れてしまった。
残ったのは……
ごぼごぼ生ぬるい水を吐き出し続ける蛇口に手を伸ばすと、赤く染まった水面にあの子の顔が映った。
おいてけぼりの、かわいそうな無力なちいさなこどもの顔。違うわ。たぷんとぷんと波打ち歪みながらこどもの唇が動いた。
違うわ。
「アタシは、ヨランダ。アタシはアタシよ。他の誰かじゃない、アタシ自身なのよ」
これは宣言。そして、産声。
『存在意義』を失くしたアタシは、ようやく今ここに『存在』を始めた。おめでとうバースデイ。
初めての呼吸で、アタシは泣いたりしなかった。涙を流すには悲しすぎたから。