アレックスvsトーマス・ザ・スペクター

荒廃した世界を往く、二つの影があった。

「はらへったー、はらー!」

〈不死なるもの〉アレキサンダーと、

「健全な精神があなたの肉体にまだ宿っている証拠ですよ! 喜ばしいことです!」

D10-GNS型人工知能搭載ナビゲーションシステム、通称〈樽妖精〉ダイオゲネス。

辺りには、かつて防護壁であったと思しき残骸が林立し、無機の梢には青葉の代わりに有刺鉄線、ケーブル、生臭い繊維が幾重に絡みついた。ところどころにぶら下がった高汚染域を示すマーカーが微かな風に揺すれ、乱反射した光が小虫めいた軌跡を描きそこいらじゅうを飛び回る。作り物の森にあるのはそれだけだった。他には何も。生命の気配はおろか、その名残さえ。

暗澹とした風景とうらはらに、軽口を叩き合う二人の足取りは軽かった。一帯の汚染は既に人間にとって致命的なレベルで、野盗の類から奇襲を受ける可能性は薄い。

「いてくれてもいいんだけどな。食い物とか食い物とか食い物を強奪できる」

「もはやどっちがバンディットだかわかりゃしませんよ……」

「しっかし、人間はともかく魔物の一匹も見当たらねぇのはなぁ。寂しいぜ。主に口が。
ある日森の中くまさんが言うことにゃ『お嬢さん私をお食べなさい』…って、ハートウォーミングな童話を聞いたことがあるようなないような」

「心あったまり要素が微塵もありませんよ!
ここを抜けて、ずーっと、排水プラントが見える場所まで歩けば集落がありますから、そこまでは正気でいてくださいね」

「ずーっとって、どのくらいのずーっとだよ?」

「知ったら後悔するくらいのずーぅうーっと、ですよ」

「マジか! いざとなりゃ自分の腕かじっても……ぉん?」

踏み出したブーツの裏に違和感を覚えたアレックスは、反射的に足を上げた。

金属片混じりのざくざくした黒い土とは違う、丁寧に均し固めた感触。よく目を凝らして観察すると、均した土は一定の幅を維持しながら、アルミ柱の合間を流れる川のように続いている。

「これは……いわゆるアレだな、道っぽいな?」

「ええ、紛うことなき、道です。土壌を転圧し、定期的に維持管理がなされている」

「誰に?」

「……誰かに」

二人は顔(に該当するパーツ)を見合わせた。

「おいおい、話が違うぜ。近くに集落は無いんじゃなかったか?
それとも魔物? 天使が勝手に掃除してるとか?」

矢継ぎ早の質問に、ダイオゲネスはいくつかの仮説をもって答えようとした。が、アレックスの背後にレンズを向けると、キュッと絞りをすぼめて―――人間的に表現するなら、ぎょっとした顔になった。

アレックスは素早く振り返った。10mほど離れたところに『誰か』が、今まさに挨拶しようとしていたように軽く片手を上げて立っている。

見たところアレックスより頭二つ分ほど背が高く、身体は骨と皮ばかりのように痩せこけている。何より異様なのは顔だ。何しろ、三つ揃いのスーツの上に乗っかった頭は電球のようにつるりとして、頭髪も、目も鼻も口も耳もない。

「あいつ、人間……か?」

「いや、いや……そんなはずは……」

ダイオゲネスは咳き込むような音とともに沈黙した。彼は"混乱"状態から回復するため、まず自身のあらゆるセンサーについて緊急スキャンを実行し、次にデータ解析アルゴリズムを検証した。どちらも異常なし。

では、だとすれば『あれ』は何か? エラーが生み出した誤ったイメージではないとしたら?

魔物・天使(アンドロイド)・人間のいずれの特徴とも合致しない。まるで―――

(お化け(スペクター)……?)

浮上したあまりにも馬鹿馬鹿しい予測を、ダイオゲネスは瞬時に仮想メモリ上から消去した。

亡霊! 妖怪! なんて非科学的存在! そんなものは隣のゾンビだけでたくさんだ。

「やあ」

はたしてのっぺら男は(声と服装から推測するに彼は"男性"だ)二人に挨拶を投げかけた。ちょっと近くをぶらぶらしていたら顔見知りに出くわした、といった調子で。

アレックスには、次の行動を選択する余地があった。威嚇、攻撃、逃走。その中で、彼は自身の良識に従い、もっとも穏当な行動を選択した。

「よう。俺はアレックス。こっちは妖精の樽」

「ダイオゲネスです!」

「こんにちは、アレックスとダイオゲネス。僕はトーマス」

トーマスと名乗る男は胸に手を当て、かしこまったお辞儀をした。つられてアレックスも。

見た目の異様さはともかく、彼の紳士然としたふるまいには確かに一定水準以上の知性を感じる。

トーマスは、君達にもてなしの席を用意したい、と提案した。アレックスは断らなかった。

常人には到底耐えられない環境で生きている彼はアレックスの体を蝕む呪い、その解除法について、助けになる情報を持っているかもしれない。アレックスの主張はダイオゲネスからしても、まずまず理にかなっているように思えた。

「べ、別に飯に釣られた訳じゃないぜ!」

という、もう一つの主張は鵜呑みにできないが。

だが……

森の中の遊歩道の先を行くトーマスの、警戒心の欠片もない後姿を画角の中心に置く。再検証の結果もやはり、脅威となるファクターは検出されなかった。

なのに、何故だろう、この拭いきれない不安は!

針金の痩身にぼろを巻きつけただけの男は、我々に友好的に振る舞っている……しかし、彼の足から伸びる影はまるで奈落まで続く地割れのように彼と二人の間に横たわり、そこからは、精密機器では検知できない何か、0と1の隙間に巣食う何か、ダイオゲネスを怖気づかせる何かが蒸気のように吹き出している……

道は次第に緩やかな坂道に変わる。と、百歩も歩かないうちに視界がひらけた。森のなかでそこだけが小高い山になっていて、ごみごみした森の全容が一望できた。

丘の頂点にはおそらくトーマス手ずから、お茶会の支度が整えられていた。白い丸テーブルには4つの花柄のティーカップ、と揃いのソーサー、スプーン、シュガーポットとミルクピッチャー、大ぶりなティーポット、の上にカメラ鳥。

「カメラ? どう見たって鳥だろ?」

「鳥? どう見てもレトロカメラでしょう!」

「ポルカはカメラ鳥で僕の親友だ。さあポルカ、旅人さんたちにご挨拶を」

鳥の体にカメラの頭をつぎはぎしたトーマスの親友は、抑揚をきかせた笛音で二人に挨拶した。

ダイオゲネスはデータベースから『燕雀目・挨拶のさえずり』音声を再生した。

アレックスは森の上空を見ていた。薄曇りの空に巨大な車輪の骨組みが浮かんでいる。

「トーマス、あのばかでっかい車輪は?」

「観覧車だよ。人を乗せて、ぐるぐるぐると回る」

「ぐるっと回って……どっか行けるのか?」

「どこにも行けないよ。元の場所にかえるだけ」

トーマスの喉から、セロハンの震えるような音がした。笑っているらしい。

アレックスはほへえ、と相づちのようなため息のような声を出した。それから、過去世界の人々に思いを馳せた。

奴らは何のためにぐるっと回って返るだけなんて無意味な乗り物を作ったんだろうな? アートってやつか? それともシューキョー? 何にしてもおかしなことに資材と技術をつぎ込むものだ。

「あの…アレックス、あんな大きな建造物、森に入る前には―――…」

「おや、まあ!」トーマスの声がダイオゲネスの話を遮った。「僕、ミートパイを切り分けるナイフを忘れてきてしまった」

ミートパイ! アレックスの目がいつにも増してギラリと輝いた。揉み手しながらいそいそとテーブルを覗き込む。トーマスがテーブルの下から取り出したのは、おお! みっしり詰まった見事なミートパイ。

「ナイフなら俺が持ってるぜ! ちょっとばっちいかもだけど……
ダイオゲネスは食べないから三等分でいいな」

「いや、僕とポルカも食べない」

「おっと、切る必要がなくなりましたね」

ということで、パイはまるごとアレックスの取り分になった。

網目状の生地にナイフを入れると、「食べるのは全員に紅茶が行き渡ってからですよ!」「わかってるって」甘い香りと金色の油がほとばしる。

断面から覗く『みずみずしい』ミンチ肉を見た瞬間、ダイオゲネスの回路に例の意識信号が走った。言いようのない不安。

「……やっぱり、私にも一口だけいただけます?」

「全員に紅茶が行き渡ってから!」

アレックスがテーブルからパイの皿を取り上げるより一瞬早く、ダイオゲネスは採取アームの先端に肉の破片を引っ掛けた。

解剖学は未履修だが四の五の言っていられない。サンプルを比較分析するだけなら前世紀のコンピューターだって―――――《警告》!

「アレックス! それを食べてはいけません!」

「ングッ! な、なんらろきゅうに」

「わー口に入れちゃった! ぺっしなさい、ぺっ! 飲み込んではダメ!
そのパイの原料は『人間』です!」

アレックスはすぐさま頬張った肉を吐き出した。

口元を袖で拭いながら、不快と怒りを額に漂わせ、奇妙なお茶会の主催者を睨みつける。

彼は、ただ静かにティーカップを傾け、しかし彼の顔に受け止める口は無く、液体は顎から喉を伝い胸元にこぼれ、とめどなく白いシャツを濡らし続ける。

悪夢みたいにいかれた光景だった。沸騰しかけた頭はあっという間に芯まで冷えた。

「……もう行きましょう、アレックス。長居は無用です」

ダイオゲネスに促され、アレックスは憮然としながら席を立とうとする。

瞬間、小鳥がけたたましく鳴きはじめた。屠殺される動物の悲鳴とも金属を引き裂く音ともつかない、その声の凄まじさたるや、間近で聞いたアレックスが寸の間めまいを起こしたほどだ。

が、より顕著な反応を見せたのはダイオゲネスだった。寸胴を取り巻く蛍光板が目まぐるしく色を変えたかと思うと、突然、魂の抜けるような音とともに真っ暗になり、そのままどすんと横倒しに落ちて、丘の下へ転がり落ちていった。

「ダイオゲネスッ!?」

返答はない。

相棒の後を追おうと身を翻した瞬間、風の唸りが耳をかすめる。反射的にナイフを振り上げる。芯を切断する感触。

ぬたり、足元に黒いケーブルが落ちた。

灰色の空に、粘菌が石壁の表面に輸送管を蔓延らせるように、うねりからみ、不安定に蠢きながら、無数のケーブルが伸び上がる。蔦の根を目で追えば、それらはすべて、無貌の男の背後に収束していた。

彼は茶器をテーブルに置き、おもむろに立ち上がった。顔の無い顔がアレックスに『微笑みかける』。

「これがあんた流のおもてなしってやつかい、トーマス」

「アレックス、気分が悪いの?」

「悪いがあんたのもてなしは、俺には受け付けない」

「ここで休んでいくといい。僕ら、ちょうどお茶の時間なんだ」

噛み合わない会話。

凍りついた空気。

男は親しげに両腕を開く。

「ずっとお茶の時間。僕の時計は壊れているから」

触手は一斉にアレックスめがけ殺到した。体勢を落とし横っ飛びにかわしざま、胴体に巻き付こうとした一本を切り落とす。追撃に備え二本目のナイフを構えるが、ケーブルは怯えたように導線がむき出しになった鎌首を引っ込め、獲物を捕捉範囲外に逃した。

どうやらトーマス自身、無数の腕を持て余している。アレックスはそう踏んだ。本人はその場にぼんやり突っ立ったきりで、ケーブルの動きはぎくしゃくと単調で統制が取れていない。その点では、アレックスにまだ分がある。

とはいえこちらの腕は二本きり。いずれ物量差で押し負けるのは目に見えていた。

「君は早い。鳥のようだね。僕の鳥は歌うのが得意。ねぇ、ポルカ」

小鳥ははるか頭上を旋回し、機械を狂わせる金切り声を森に振りまいている。

あれが、ダイオゲネスを……だめだ。一度距離を置かなければ。

ケーブルの先端が足元の土を抉り飛ばすのを合図に、アレックスは一目散に丘を駆け下りた。森に駆け込む寸前、相棒の転がっていった方に向かって叫ぶ。

「じっとしとけよ! 後で拾いに行くから!」

返事を待つ余裕は無い。塩化ビニルの擦れ合う音をうなじに感じる。

あとはもう、闇雲に森の中を駆けずり回るだけだった。思考は空白に変わり、研ぎ澄ました感覚が肉体の支配権を得る。フェンスの穴をくぐり、折れ重なる柱をすり抜け、脱兎はより狭い道、細い隙間を探して体を滑り込ませた。狐の鼻口が潜り込めない穴の奥へと。

追跡の気配は徐々に遠ざかり、やがて、完全に消えた。

だがアレックスは油断なく足を止めず、やや速度を緩めるだけに留めた。前方に一定の注意を残したまま背後を窺う。陰鬱な森の風景は、古ぼけた写真のように灰みがかり静止していた。

逃走劇の幕切れにしてはあっけない。

いや、これで逃げ切れたはずがない。泳がされている。奴は狩りの手法を囲い込みに切り替えるつもりだ。生かさず殺さず、自分の縄張りの中で獲物が弱るのを待つ算段か。なるほど、追いかけっこ一辺倒より勝算はあるだろう。

上等じゃないか。アレックスは不敵な笑みをうかべた。もとよりこちらも、おめおめと敗走に徹するつもりはない。

一矢報いてやれるかはさておき、森のどこかにダイオゲネスが転がっている以上、鳥のくちばしを閉じる何らかの手段を講じる必要がある。

しかし、こりゃあ……空きっ腹をさすってため息をつく。いよいよ自給自足の選択肢が現実味を帯びてきた。

と、その時、目の端で鋭い光が閃いた。咄嗟にその方向へナイフを投げる。金属同士がぶつかる硬い音がして、役目を遂げたナイフと、続いて真っ二つに割れた『標的』が地面に落ちた。

「…なーんだ、脅かすぜ」

アレックスはどこか楽しげに舌を鳴らし、ナイフを拾い、マーカーの破片をつま先で蹴飛ばした。

道中で同じものを見かけた。先に通った誰かが、後続のために残した符丁。ふと疑問が湧く。

(誰かって誰だ?)

トーマスが? いや、この環境に適応している彼に、そんなことをする理由があるだろうか。

他の可能性……『誰か』は外からやってきた……おそらくは、人間。この地を侵す呪いが今ほど深刻ではなかった頃。現状で推測できることといったらそんなものだ。

そいつが誰で、何をしにここへ来たのか、もちろんアレックスの知るところではない。

だが、ついさっきどこにいたかは、たぶん知っている。俺の口ん中! はぁ、マジで最悪だ。ちくしょう、あのいかれたのっぺら男がどういうつもりで人肉パイを供したか知らないが、今度出くわしたら電球頭をしこたまぶん殴ってやる。

急に目の前が明るくなり、アレックスはたたらを踏んだ。

多重に錯綜するケーブルのかずらが陽の光を阻むパーゴラの下で、そこだけ突然に、天井にぽっかり穴が空き、スポットライトを当てたように丸い日向ができている。

その中心に、小屋があった。

全体が淡い水色で、缶詰を横倒しにしたような妙ちくりんな形をしている。小屋の上半分を占める窓には内側から黒い布で目張りがされていて、中の様子を窺うことはできない。

この森で色を見るのはずいぶん久しぶりのような気がした。絶縁テープの派手な赤青とは違う……アレックスは花柄のティーカップを思い出した。そう、あんな、親しみを覚える色彩を。

なんだ、全然久しぶりなんかじゃない。アレックスは自分の腕を手のひらでこすってにやにやした。ついさっき見たんじゃんか。なあ。

何故だろう、ダイオゲネスが停止する瞬間、鮮やかなパネルの色調が脳裏をよぎった。

何かを打ち払うように激しく頭を振って、孤独なゾンビは探索を再開した。

小屋の扉にそっと耳を当てる。こそりとも言わない。顔の前にナイフを構え、なるたけ音を立てないように掛けがねを外す。うんともすんとも。そこまでやって、急に馬鹿らしくなり普通に扉を開けた。

目に飛び込んだのは、壁一面に並んだ大小の瓶だ。

半数は空で、もう半数は中身入り。中身は様々だ。本当に、様々。白っぽいふわふわしたもの、紫色のどろどろしたもの、黒いごろごろしたもの。

隣の並びには、ああ、これはアレックスも知っている。目玉、耳、指、歯、唇、合わせて人間ひとり分。パーツごとに分類された『人体標本』が紛れもない本物であることは、小屋に充満した腐臭が証明していた。

瓶のひとつが棚板の上で横倒しになっている。中身は空だが『一度入れた中身をそっくり取り出した』形跡が残っていた。赤黒い粘液が瓶の口から糸を引いて床に滴るのを見て、さしもの彼もげんなりして、目を背けるように入ってきた扉の方を向く。

出口を塞ぐようにトーマスが立っていた。

心臓が破裂したかと思った! いや、もしかしたら本当に破裂して再生したのかも。

間抜けた事を考えているうちにケーブルが体中に巻き付いて、中身が出るほど締め上げられる。

「なんてことだ!」

トーマスは頭を抱えて叫んだ。はっきり言ってこっちの台詞だ。

「ああ、どうして!」彼は再び叫んだ。悲しみに引き裂かれた魂から迸る、血のように赤い、痛ましい哀哭の声。

「どうしてドアを開けてしまったんだ! いなくなってしまった!
どこにもいない! 中にしまっておいたのに!
大切だから……扉の中に……なのに! いない! いないいないいない! どこにも!」

ケーブルは不吉に軋みながら更にアレックスを絞り上げた。鼻の奥に苦い味が広がり、目の前が白く輝き始める。やばい、ここで意識を無くしたら俺も瓶詰めだ。

ああなってしまっては、アレックスの驚異的な再生能力をもってしても復活は不可能だろう。

もっと恐ろしいのは、そうなった時に死ねる保証もないということだ。

瓶の中で脳みそだけになって生き続ける自分の姿を想像して、アレックスはこの森に来て初めてぞっとした。それだけは絶対に嫌だ。たとえこの俺のゾンビ生が冷凍睡眠下で純血種の見ている夢だったとしても、俺が今感じている苦しみは、俺にとっての本物だ。それが偽物だって自覚したら、俺は本当に、生きた死人になっちまうんだ!

アレックスはありったけの力を振り絞ってもがいた。不安定な形状の小屋は嵐に漕ぎ出すボートのように大きく揺れ、瓶が次々と飾り棚からすべり落ちた。粉々のガラスと腐った肉が錆の浮いた床の上で混ざり合う。トーマスは頭をかきむしって悲鳴を上げた。

「やめて、やめて! ああ……!」

アレックスの体はおそろしい力で小屋から引きずり出され、勢いのまま小屋を取り囲む金属柱の一本に叩きつけられた。

トーマスはひどく狼狽え、床に這いつくばり、泥のように蕩ける腐肉を両腕にかき抱いた。すりガラスめいて透き通る肌が複雑な色の染みに塗れる。か細い、消え入るような震え声がアレックスの耳に届いた。

「どこにも行かないって約束したじゃないか……」

彼はもう、胸を塞ぐ悲しみの他に何も考えられなくなってしまったようだった。今や拘束はずるずるに緩み、身をよじっただけで簡単に振りほどくことができた。力なくまとわりつくケーブルを払い除け、おぼつかない足で立ち上がる。ありがたいことに手足は原型を保っている。あばらは何本かやられ腹の中もどっかしら破けている感じがするが、そっちは問題ない。

まだちかちかする目で、アレックスは、深い失望に打ちひしがれる哀れな男の背中を見つめた。そして思う。

またとないチャンスだ。これを逃す手はない。

吐き捨てた唾には血が混じっている。借りを返すぜ、トーマス。

脇腹に食い込んでいた金属片を手に取り、ぽんぽんと弾ませて重みを確かめる。足音を殺して近づけば、トーマスは振り返る気配もない。丸い頭に狙いを定め、大きく振りかぶって渾身の第一打!

硬い殻が潰れるような感触がして、男は声もなくその場に倒れた。

とどめの第二打を打ち据えんと両手を振り上げたアレックスの前に、さっとすばしこい影が割り込んだ。

「あわわばばばばッ!」

柔らかな羽先で鼻っつらをばしゃばしゃやられて、面食らったアレックスは鈍器を掲げたまま後ろにひっくり返った。

ポルカはアレックスの上を飛び回りながらきんきん騒ぐ。Go away! Get outta HERE!

どっか行けときた。そいつは願ったり叶ったりだ。腹空かしながら粉骨砕身した甲斐があるってもんだぜ。起き上がった拍子に腹がグウと鳴る。

地面に倒れたままぴくりともしないトーマスに目を向ける。がらくたの森に命の気配はない。彼ら以外に。

彼は魔物か? それとも……

何かを察したポルカは、トーマスとアレックスの間をせわしなく飛び交った。

小さなカメラ鳥にとっては、親友から残虐なならず者を遠ざけたい一心の、死にものぐるいの抵抗だった。それがアレックスの頬にそよ風を当てるだけの行為に過ぎないとしても。

「安心しろ。俺ァ、"人は"食わねえ」

それにカメラも、と付け足して、落ち着きないポルカにいたずらっぽく笑いかけた。

「もう鳴くなよ。
お前の友達の頭を粉々に壊すなんて、寝覚めの悪いことしたくねーからさ。
あ、そうだ。
お前、俺の友達がどこ転がっていったか知らない? 樽っぽいやつ」

小鳥はごくごく小さな声で、near、と鳴いた。

「近く?」

アレックスがあたりを見回したちょうどその時、フェンスの影から、ビビットに輝く樽がごろんとまろび出た。

「あ゙ー気持ち悪い……二日酔いとはこういう症状なのだろうか……
あ…アレックス! ご無事で何より……!
どうやら私、電磁波による干渉を受けたようで……
システム保護のため一時セーフモードに移行……復旧に時間が掛かって……ん?
あー! その人! やっつけたんですね!
いやー良かった良かった、これで無事森を脱出……なんですかその呆れ顔」

「いや、お前、なんかめちゃくちゃ元気そうだなーと思って」

「なんです! ただ寝てたんじゃないんですよ! 私には私の負けられない戦いがあったんです!」

「あーっ、そ!」

アレックスは大袈裟に肩をすくめた。

ダイオゲネスは、今しがた抜け出した無機の森を振り返った。

おどろおどろしく感じた場所も外から見ればなんということはない、終末世界にありふれた瓦礫の山にしか映らなかった。

「あの人達、ほっといてきて良かったんですかねぇ……」

「ま、大丈夫だろ。どっちみちこんな場所、もう死人しか通れないしな」

「それはそうかもしれませんが……フムムム」ダイオゲネスは感嘆めいたノイズを上げる。

「結局のところ、彼は何がしたかったんでしょう?」

「うーん」

アレックスは、トーマスの切なげな震え声を思い出す。

(どこにも行かないって約束したじゃないか……)

パイになった誰か。どこかから来た誰か。いつか去る誰か。

大切にしまって、鍵をかけても、時間は閉じこめておけない。

「たぶんあいつも、それがわかんなくなっちまったんじゃないかな……」

「深い話……と見せかけて、考えるのが面倒になっただけですね?」

「へへへへ、バレたか。もう腹ペコで頭が働かないぜ!」

「あなたがしたいことはいつ何時も単純明快で大変結構です。いや本当に」

動かない観覧車の上、旅人を見送る、二つの影があった。

アレックスとダイオゲネスの旅は続く。

2017/8/19

jumeiさんの企画に参加しました!

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『トーマス・ザ・スペクター』
背の高い、痩身の、顔の無い男。
黒いスリーピース・スーツを身にまとい、無数のケーブルを腕のように操る。
今日も彼は"お茶会"の参加者を待っている。前世紀は遊園地と呼ばれた鉄くずの森で。

『ポルカ』
かしましいカメラ鳥。