どうにか少年が正常な思考を取り戻した時には、汗と体液で汚れた体は清められ、剥ぎ取られた服は、かなり適当にではあるが一応着付けられていた。

枕元には、仄かな湯気を上げる湯呑がぽつんと置かれている。飲め、という事らしい。

男もすっかり身支度を整え、今は少年に背を向け、鏡に向かって乱れた髪を手で撫で付けている。

重い体を引き起こし、湯飲みを手に取る。渇いた咽喉に熱い茶を流し込んだものだから、案の定むせてしまう。男が振り返って、微かに笑った。

「慌てて飲むんじゃないよ」

そう言って、再び鏡に向き直る。

その時、少年は緩んだ着物から覗く項に線のような痕を見止めた。それが己の爪が残した蚯蚓腫れだと思い当たり、そう思うと、白い肌に浮く赤い傷が痛々しさを一際増した気がして、思わず目を伏せた。

―――どうした?」

少年の様子に気が付いたのか、男は少年と向き合うように座り直す。

真直ぐに見つめられて、少年はいっそう居場所が無いといったように小さくなる。

「あの、背中の、痕が……」

「背中?……ああ、これ」

「……その、すみません」

そう言い、更に小さく体を縮こませる少年を見て、男は一瞬目を見張り、表情を緩めたかと思えば今度は笑い始めた。

男の不可解な反応に、少年の方が驚く。

「っく、ははは!

……いやぁ、アンタって面白いねェ。別に謝る必要、無いじゃないか」

「え?」

「アンタ、腹立たないの?

いきなり知らない男に押し倒されて、犯されたのに」

腹が立つか、と聞かれて、改めて少年は考えてみる。

確かに男の仕掛けた行為は人として許せない事かもしれない。心が少なからず傷付けられたのも事実だ。

だが、逃げ出す好機はいくらでもあったし、目の前の男に憎しみを感じるかといえば、そんなことも無い。

首を傾げたまま暫く考えを廻らせた後、少年は静かに首を横に振った。

「……変わった子だね」

「そうですか?」

「アンタ、将来良い男になるよ」

しみじみとした口調で言って笑う。

意味はわからなくとも、褒められているのは理解できる。ありがとうございますと少年が頭を下げると、本当に変わった子だね、と今度は呆れたような調子で言った。

―――ああそうだ、送っていくンだっけね、表通りまで」

「はい……あ、ああ!」

男の言葉に、漸くここに来た経緯を思い出した少年が素っ頓狂な声を上げ、男は思わず摘み上げた煙草を取り落とす。

時計が無いので正確な時刻はわからないが、恐らく相当な時間が過ぎたことだろう。おろおろと頭を抱えどうしようどうしようと口走る少年の様子に、男は訝しげな表情を浮かべながら、すいと立ち上がる。

「表まで出たら、後は解るね?」

「あぁぁ……あ、はい」

「……じゃ、支度しな。表にいるから」

まったく唐突に、男は少年への興味を無くしたらしい。つっけんどんにそう言って、衝立に引っ掛けた女物の着物を掴み、さっさと外へ出て行ってしまった。少しして、僅かに開いた木戸の隙間からくすんだ煙が流れ出し、小さな空咳が聞こえた。

少年は手の中の湯飲みを空にして、布団の上に立ち上がり、乱れた着物を直しにかかる。その間考えるのは、先刻からの疑問についてだ。

体にしがみ付いた時、男が極々小さな声で呟いた言葉。

もしかしたら、見違いかもしれない。それでも少年には、男の唇が、

―――ごめんよ…

と、言ったように思えてしかたがなかった。

だが、そこでどうして謝るのか、その理由がどうにも見えない。

やはり、思い違いだろうか。

(謝る必要、無いじゃないか)

思わず、心の中で男の言葉を真似て言ってみた。己には似合わない調子に、思わず噴き出す。

「このまま捨ててったって良いんだよ!」

小さな声を聞きとめたらしい男が、苛立った調子で言う。

少年は慌てて笑いを引っ込めて、すぐに、と返事を返した。

  →
2008/6/2