方舟

買い物へ行った帰り道、つい先日までそこにあった芒野原が、駐車場に変わっていた。

当たり前にあった風景が、目に馴染まない、無機質な色に塗り替えられていく。それを目にするたび、僕の胸はちくりと痛む。

「仕方ないさ。人の世の移り変わりは激しい」

柘榴はそう言って、そっと僕の二の腕に触れた。彼は人間の僕よりずっと、世俗に通じているのである。

僕は彼のように割り切れない。彼曰く、僕は感受性が豊か過ぎるのだそうだ。まるで小さな子供のように。

慰められてもまだ立ち止まったまま物思いに耽る僕の意識は、ちちちと舌を鳴らす音で引き戻された。

「晶の感傷に付き合っていたら、家に着く前に秋刀魚が腐ってしまうよ」

「……ああ、ごめん」

今日は焼いた秋刀魚に大根おろしを添えたのと、秋刀魚のぬたにしよう。それと、茄子の揚げ漬し。秋の風味尽くし。

僕の呟きを聞いて、柘榴は満足そうに、名の通り深紅の目を眇めた。

「いい肴だ」

人型の彼はよく食べ、よく呑む。

残念ながら僕は下戸なので、煎茶で付き合うことになる。それでも、摘みを口に運びながら彼の話を聞いていると、そのうち頭がふわふわと心地よくなってくるのだ。

彼の体内に永い年月をかけて蓄積した瘴気が、彼の声に溶けて流れ出しているような。それに酔わされるのは、悪い気分ではない。

「あいつが生きていたら、喜んだろうな」

祖父もそうだったのだろうか。

柘榴と祖父がどういう関係にあったのかは知らないが、それなりに長い付き合いで、祖父が彼を守るために遺書にあんなことを書いたのだろうというのは、なんとなく察しがついた。

街路樹が散らした落ち葉をさくさくと踏みつけ、他愛ない会話を二言三言交わしながら、ゆっくりと歩く。

時の流れを肌で感じる、穏やかな午後。少し遠回りして帰りたい気分だ。

が、そんなにのんびりしていたら、本当に魚が傷み始めてしまう。少しペースを上げようか……手提げ袋を抱えなおした、その時。

「痛っ」

首筋にちくりと痛みが走った。

何だろう、と僕が手を伸ばすより早く、柘榴が僕の肩辺りを袂で掃う。小さな風が起こり、一枚の木の葉がひらりと舞い落ちた。

「礼儀知らずめ」

柘榴がち、と舌を鳴らした。

よく見ると、木の葉と見えたのは一匹の大きな松虫だった。秋風に頼りなげに揺れる長い触角は、強く払い除けられた所為か片方が途中で折れ曲がっていた。

憐れに思って伸ばしかけた手に、白い指が絡みついた。

「晶、何度言っても懲りないね。翳の時も」

「だって可哀想じゃないか。触覚が折れたのは柘榴の所為だし」

「それがこいつの寿命さ。枝から落ちてきた時点で相当弱っていたんだ。

私が手を下さなくとも、何日も生きられなかっただろう」

一理ある。しかし、あまりにも冷たい言い草ではないか。

「命あるものはいつか死ぬ。それだけの事だよ」

「だから、縁は重んじなければならない。そうだろ?」

「……」

「庭で看取ってあげるくらいは許してくれるよね?」

今度も、と赤い瞳を見つめる。

柘榴は僕を見据えて、路上でじっと動かない松虫に目を移し、再び僕のほうを見た。

「……一度甘やかすとこれだから」

そう言って、ぷいと後ろを向く。そのままさっさと歩き出した。

「あ、ちょっと待って」

慌てて松虫を手のひらに掬い上げ、早足で遠ざかっていく背中を追いかける。

長い触角が、人差し指の腹を撫でた。ありがとうと言っているように。どういたしましてと心の中で呟く。

こういうところが、彼の言う「僕の幼稚な感受性」なのだろう。確かに間違ってはいない。腹は立つけれど。

肴を一品増やしたのが功を奏したか、夕食が終わる頃には柘榴の機嫌はすっかり直っていた。

台所に、ほろ酔い気分の彼が小唄を口ずさむのが聞こえてきた。古いわらべ歌だ。祖父もよく歌っていた。

洗物の手を止め耳を傾けていると、ふと、先刻拾った松虫のことが気になった。

裏口から庭に出る。灯りを持たずとも、縁側から漏れてくる光と満月のお陰で足元は明るい。

庭の端、つつじの根元に、ひときわ明るい色の木の葉のように松虫は落ちていた。

折れた触覚を夜風に震わせ、鳴く力も尽き、彼はただじいっと最期の時を待っていた。

「これはもういけないね。今夜中も持たないよ。いや、後数分といったところかな」

いつの間にやってきたのか、ガラス戸の内側から柘榴が意地悪く笑った。

その時、一際冷たい風が庭を吹き抜けた。まともに食らって、踏みとどまる力も失くしたか、松虫が横倒しになった。

掌の上に取り上げる。立ち上がろうとするかのような脚の動きも、少しずつ弱くなる。

消えゆく命の焔を目の前にして、僕はなんと無力なのだろう。例えそれが寿命という何者も抗えぬ定めだとしても、爪を立てる術さえ持たない。

いつの間にか、柘榴は部屋に戻ってしまっていた。

掌を掻く脚の動きは僅かな痙攣に変わり、やがて、動くのをやめた。

僕の手の中で、またひとつの命が消えた。

地に降ろすのが忍びなくて、掌に骸を乗せたままで庭先に立ち尽くしていると、からりと縁側の戸が引かれ、柘榴が顔を出した。

「死んだの?」

僕が頷くと、こちらへ来いと手招きをする。

促されるまま縁側の方へ行く。彼は手に、掌に収まる位の小さな白い箱をふたつ持っていた。

「それ、何?」

「渡しの舟だよ」

柘榴はふわりと笑って、箱を開いて見せた。

赤色の千代紙で折られた箱は、内側に模様が来るように折られていた。

「あべこべじゃないか」

僕が言うと、彼は呆れたように溜息をついた。

「晶は馬鹿だなあ。外見が飾ってあっても客は喜ばないだろう」

彼は僕の手から薄緑の虫を取り上げ、箱の中に納めて蓋を閉める。

それで僕はようやく合点がいった。彼が作ったのは、虫達のための棺だったのだ。

僕は庭中を探し回って、庭石の上に落ちていた翳の亡骸を見つけ出し、もうひとつの棺に納めた。

その間に柘榴が送り火を焚いていてくれた。

「送る者の務めだ。さあ」

送り火から少し離れた所に立って、柘榴が言った。

小さな炎の中へ、二つの棺を落とす。ぱっと火の粉が散り、紙製の棺は瞬きをする間もなく火に溶けていった。

僕は立ち上がり、柘榴の隣に立った。彼は僕を見て、ただ静かに微笑んでいた。

しばらくの間、僕らはふたり並んで、空へ上る紫色の煙を見送っていた。

命の価値が同じなら、虫の魂もまた、人と同じ場所へ還るのだろうか。

「極楽浄土へ向かう船は、金と錦で飾られていたそうだ。

きっと奴等もたどり着けるさ、そこへ」

独り言のように呟いた言葉は、きっと僕に向けられていたのだろう。

結局彼は、とても優しいひとなのだった。

2009/4/8