幽光

いつものように縁側から庭先を臨んでいると、松の根元からこそりと声がした。

「翳が死んだよ」

そう、と相づちを打ち、少し間を置き、蟷螂にでもやられたかな、と付け足す。

「真逆。寿命さ」

そうだろう。秋の終わりも近い。

翳というのは、数日前この家に迷い込んできた揚羽蝶だ。燐粉が削げ落ち、頼りないほど薄く透けてしまった翅を見て、僕が名付けた。

名前を付ければ、自然と情が湧く。しかし彼は、傷ついた翳に手当てをする事を許さなかった。

地から生まれたものは、地に落ちるままに。そこにひとが手を入れるから摂理が狂ってしまったのだと、彼はよく言っていた。

彼を彼と呼ぶのは実はおかしな話で、それというのも、松の老木に塒を構える彼は、雌の白蛇だからである。

しかし彼が人の形を取るときは決まって若い男性の姿だし、本当のところ、僕は彼の性別は知らない。時々彼の寝床の中に卵があるので雌だと勝手に思っているが、もしかしたら彼は性別など超越した存在なのかもしれない。

さもありなん話である。人語を解する蛇なのだから。

数年前他界した祖父は、僕らにすこしばかりの土地を遺した。

しかし祖父の財産は、遺書の一番最後に書かれた一文により、親戚中のお荷物に成り下がる。

『土地には決して手を入れず、私の住んでいた家に管理する人間を一人置くこと』

そこで僕が名乗りを上げた。

気ぜわしい毎日に心を病み、大学を中退し、抜け殻同然になっていた僕が。

働きもせず、家の手入れやら庭の掃除やらで一日が終わる。

親戚中が僕に同情ないしは憤慨し、最初のうちはそれを気に病んだものの、彼と出会ってからはそんな現世の煩わしさはどうでもよくなった。むしろ、彼とののんびりした生活こそ、僕が心底望んでいたものではなかっただろうか。

「あき」

僕の名である。晶と書く。

「晶、夕食の買い物に行かなくていいのか?今日は秋刀魚が安いってさ」

「……スーパーのチラシがごっそりなくなってたと思ったら」

「いや、新聞を読もうと思ってたんだけどね。大根も安いよ」

「はいはい」

思わず苦笑した。今夜も夕食を集る気だ。

蛇姿の彼が生き物を捕食するところを僕は見たことが無い。しかし、人姿の彼はよく食べる。食通の彼の口に合うように、僕の料理の腕もかなり上がった。

しゃらん、と、薄い硝子が擦れあうような音がした。すると彼の鱗一枚一枚が空気に溶け、拡散し、広がった靄はやがて人の形に変わり、空間に定着した。

白い素肌に紬をさらりと着こなし、長い前髪が影を落とした目元など、男の僕から見てもぞくりと艶っぽい。

「出かけよう、晶」

「そうだね、冷えないうちに」

ようやっと腰を上げた僕を見て、薄い唇が微笑んだ。

彼の名は、柘榴という。

2009/4/8