手首

夜半を過ぎ、今起きているのはおそらく、二階で机に向かっている小説家と自分だけではないか、と遠藤は考えていた。

座りっぱなしで凝り固まった腰を伸ばして、窓の外に目を移した。月の光に照らされた街はどこまでも静かで、時間ごと凍り付いてしまったように冷え冷えとしている。

月の世界はきっと、こんな風ではないだろうか。遠い宇宙の向こうに思いを馳せていると、静寂に呑まれてしまいそうなほど微かなノックが耳に届く。

誰だろう?は首を傾げた。

まさか、昴が急に熱でも出して、久保が薬を貰いに来たのだろうか?

思案しながらドアを開ける。そこに立っていたのは、夜更かしの小説家でも、薬を貰いに来た大家でもなかった。

「宇多田さん」

「すみません、起こしてしまいましたか?」

やはり消え入りそうな声で、宇多田は言った。

「いや、まだ起きてたよ」

遠藤は笑って、宇多田を部屋に招きいれた。

紅茶を淹れ、チョコレートを添えて出す。が、

「夜に食べると体が重くなるので」

といって、宇多田は紅茶にしか口をつけようとはしなかった。

遠藤も紅茶を啜りながら、ソファにちょこんと腰掛け俯いたままの宇多田が口を開くのを辛抱強く待つ。

宇多田は何度も逡巡し、ようやく話を切り出したのは、遠藤が二杯目の紅茶を持ってきた時だった。

「遠藤さんは、お医者さんですよね?」

「お医者というか……まあ、似たような立場かな」

「だったら、注射を打てますか?」

「注射……?」

不安に震える声。

遠藤は少し考えた後、なるべく慎重に答える。

「出来なくはない……が、薬が欲しいと言うなら診療所で診察をしなければね」

「いいえ」

宇多田は首を横に振る。青ざめた首筋に冷たい光が射した。

「いいえ、違うんです。薬はいらないんです。むしろ、出してしまいたいんです」

「出す?何を?」

「僕の体に流れている血を、です」

そう言って、宇多田はシャツの袖口をめくり上げた。

遠藤は息を飲む。手首には幾筋も傷が刻まれ、月の光が凹凸に沿って影を落としていた。

彼が夜訪ねてきた事に感謝した。この傷が日の光に晒されていたならば、きっと直視できなかっただろうと思った。

年輪のような傷痕は、彼の途方も無い悲しみを何より物語っていた。

「自分ではうまくできない」

宇多田は寂しい、儚げな微笑みを浮かべた。

「中身は軽くなっていくはずなのに、どんどん頭が重くなって、立っていられないんだ」

そう言って、力無く首を振る。月光に浮かぶ横顔は白く、本当に風に浚われて飛んでいってしまいそうだ。

遠藤は宇多田の手首に自分の手を重ね、優しく力を込めた。

「そんな事をしたって体は軽くならないんだ」

「いいえ」

「君は生きてる。
 人として、肉体を持って、ここで生きているんだよ」

「いいえ……」

「……宇多田さん、人は空を飛べない」

「いいえ!」

宇多田は鋭く叫び、激昂した様子で立ち上がった。

慌てて諌め、あたりの様子を窺う。人が目を覚ました気配は無かった。

「ぼ、僕は」

袖口で顔を覆って、宇多田は苦しそうに声を出す。

「僕は飛べました。昔は確かに飛べたんです。
 なのに今、僕はもう高い空を見上げることしかできない……
 お願いします、僕の体がこれ以上落ちていかないようにしてください」

宇多田は遠藤の胸に縋りつき、声を殺して泣いた。

遠藤は途方にくれて、ただ細く震える肩を撫でてやる事しかできなかった。

2008/1/21