野獣の王

もう丸一日は下水道を彷徨っていた。

得体の知れない生臭い粘液が壁を覆い、足元が滑るので数えるのも嫌になるほど溝川に転げ落ちた。

壁にあいた穴から排水が吐き出されコンクリートに叩きつけられる音が背後でする度、神経が磨り減っていく。それは追っ手の足音に似ていた。

俺は追われている。

組の金に手を付けた。しかたがなかった、女の母親の手術費に充てる為だった。その女とも、もう連絡がつかない。

小学校の運動会以来の全力疾走。狭い路地を縫うように駆け抜け、コンビニに飛び込んだ。

そのまましばらく息を潜めて、奴らが通り過ぎるのを待つつもりだった。

「あんた馬鹿だろ」若い男性店員がせせら笑った。「そんな事で逃げ切れる程甘くないよ、あの手の人らは」

かっときた俺は、店員に銃を突きつけた。

店員は笑いを引っ込め、目元に侮蔑だけを残して俺を睨んだ。

「俺殺したってどうにもなんないでしょ」

「う、うるさい!黙れッ!くそっ……何とかなんねぇのかよ、ちくしょう……」

「わかったからデカイ声出すなよ。営業妨害だ」

店員は、下水道から街の外へ逃げられる、と教えてくれた。

「お客さんにサービスだ」俺にコンパスを手渡し、店員はやけに神妙な口調で言っていた。「針の指す方へ進め。失くすなよ。迷ったら二度と出られない」

このコンパスが見難い事この上ない。針は絶えずふらふらと揺れ動き、何度も進む方向を見失う。

俺は辛抱強く事を進めた。5歩進んではコンパスを確かめ、壁の泥をこそげて矢印を書いた。堂々巡りを防ぐ為だが、すぐに消えてしまいそうだ。たとえ無意味に終わろうとも、何もしないよりマシだと思うようにした。

必ず生きて、逃げ延びてやる。それだけを何度も口の中で繰り返しながら、ナメクジのようにゆっくりと泥の中を這いずって進んだ。

そして、俺はとうとうその場所にたどり着いた。色の違う壁は、行き止まりじゃない。それを見つけた瞬間、悪臭に痺れた俺の頭がきっぱりと冴え渡った。

一枚の鉄製の扉。地獄の終わり。

震える指を錆の浮いたドアノブに掛け、回す。鍵は掛かっていなかった。叫びだしそうな興奮を抑え、静かにドアを開く。

だが、そこは待ち望んだ出口ではなかった。おそらく作業員用が使う倉庫か何か。

しかし、俺に落胆に肩を落とす暇は無かった。

部屋の一番奥、乱雑に詰まれたコンクリートの上に、高級そうな毛皮が分厚く敷き詰められ、その中に埋もれるように一人の少年が寝そべっていた。

誘拐の二文字が俺の脳裏を過ぎる。

肩が僅かに上下している。死んではいない。もしかしたら、出口を知っているかもしれない。望みは薄いが、そんなことは二の次だ。とにかく誰かと話がしたかった。

「お……おい」

死に掛けた爺のような声が出た。

昨日一日、何も口にしていない。水だけは嫌と言うほどあったが、あの黒と茶色と緑の入り混じった液体は渇ききった咽喉でも飲み下すことはできなかった。

少年が起き上がった。目が覚めたのだと思った。

違う。気付いた瞬間、俺の体は凍りついた。起き上がったのは彼ではなく、彼の下に敷かれていた毛皮だ。

『毛皮』はゆっくり頭を擡げ、ぎらぎらと光る眼で俺を見た。気がつくと、いくつもの眼がドアの前に立つ俺を凝視していた。

その内のひとつ―――ちょうど少年の頭の辺りに蹲っていた黒い獣が、のそりと体を揺らした。

立ち上がったそれは獣ではなく長身の男だった。部屋にひしめく獣の背を跨ぎ越して、俺の方へ歩いてくる。俺の方へ。

「くっ……来るなぁぁあああ!」

尻ポケットに差し込んでいた銃に手を伸ばす。冷たいグリップが手に触れた。意識を目の前に戻した瞬間、目の前に掌が迫っていた。

掌打は俺の顔3cm横に着弾した。鉄製のドアが五本指の形をくっきり残して窪む。

コンパスがポケットから転がり落ち、黒い男の足元までカラカラ転がって、はたりと倒れた。覆いガラスが外れむき出しになった針が、震えながら立ち上がった。

俺は驚愕に目を見開く。針は一定の方角ではなく、ずっとこの男を指し示していたのか。だとしたら……

『お客さんにサービスだ』

あの店員。

客は俺じゃなかった。そういう事なのか。

俺は笑った。引き攣る喉で壊れた玩具のように笑い続けた。男は微塵も動じず、ビー玉のように無機質な瞳で俺を見下ろしていた。

男の左手が俺の肩に、右手が右頬に当てられる。男はその手を、横に

 
 

深い眠りから覚めた四ツ谷は、傍らに十和がいない事に気がついた。

身を起こし、部屋を見渡す。獣達はそれぞれ寛いで寝そべっていたが、どことなく興奮して落ち着かない様子だ。

程なく、四ツ谷はその理由を知った。

「十和、何してるの?」

十和は部屋の出入り口の前に蹲り赤黒い塊に鼻面を突っ込んでいたが、四ツ谷の声を聞いて顔を上げた。

口元を赤く染めた十和の顔を見て、四ツ谷は溜め息を吐く。

「また僕に無断で食べたね?悪い子」

十和は獲物から体を離し、四ツ谷の傍に戻っていく。

他の獣達は大人しく部屋の隅に身を伏せていたが、四ツ谷が指を鳴らして合図すると、たちまちはしゃぐ子猫のようになってご馳走に突進していった。

たった一匹の獲物で腹が膨れる筈はないのに、十和は完全に肉塊への興味を失くし、今は四ツ谷の隣に寄り添い、甘えるように血塗れの顔を肩口に擦り付けてくる。

その仕種が堪らなく愛おしくて、十和の頭を抱きしめて、ぼさぼさの髪に顔を埋めた。

「今欲しいの……?

しょうがないなぁ……起きたばっかりだから、少しだけだよ」

首を傾け、襟元を大きく開ける。露わになった四ツ谷の首筋には、いくつもの歯形がくっきりと赤く残っていた。

十和が、その内のひとつに重ねるように唇を寄せる。

「いいよ、十和。噛んで」

躊躇いなく、白い牙が柔らかな少年の肌に食い込んだ。四ツ谷は胸の奥から嬌声めいたか細い悲鳴を上げる。

噛み付かれた瞬間きゅっと収縮した身体が、流れ出る血に合わせるように徐々に弛緩していく。

上気した顔で呼吸を乱し、四ツ谷は失神感と獣の下が舐め取る感覚に身を委ねた。

四ツ谷は自身の血に人とは違う何かが混じっている事を、感覚的に理解していた。

傷の治癒が早い。それに、不思議な香りがする。

枯れた薔薇に似た甘いその香を嗅ぎつけ擦り寄ってくるのは、人に飼いならされ、草臥れた目をした動物ばかりだった。

かなしい瞳は、鍵を掛けた家で独り膝を抱えていた時の自分に似ている気がした。

彼は積極的に獣らに自らの血を与えた。些細な痛みなど必要とされる喜びに比べたら苦にならなかったし、いつかその苦痛すらも快感に変わった。

十和と出会ったのは、ちょうど彼が人間に見切りをつけた頃だった。

獣達は徐々に落ち着きを取り戻し、再び部屋の隅に戻って寝転がったり、腹ごなしにじゃれあって遊んだりし始めた。

侵入者だったものは数えるほどの黄色い骨に変わり、血溜まりの中に転がっている。

あれではとても足りないし、やっぱり今夜も狩りに行かなければならないかなあとふわふわと霧が掛かった頭で四ツ谷は考える。

「でも、もう少しこうしててもいいよね、十和」

広い胸に身体を預けて、互いの心音が重なるのを感じながら四ツ谷は幸福に満ちた表情で瞼を閉じた。

2009/1/27